フェイクだなんてわかっている。
だけど同じ傷を背負う者同士、ひと時の恋人気分で癒し合うのも悪くない。
淋しさがあたし達を繋ぎ合わせた。
【小説紹介文】
セックスレス 夫 不倫 モルディブ バンドス 小説 無料
不機嫌な肌(バンドス)
こんなにもこんなにも鮮やかなブルーを見たことがあっただろうか?
空と海は溶け込み、様々な青色で紡いだ布地のように環礁を包んでいる。
この色彩を深く胸に刻み込んだ。
何処にいても瞼を閉じれば暗闇にじんわりと、鮮やかに青い世界が視界に覆い被さってくる。
だけどいつからだろう? 色褪せたセピア色の写真のように、想い出の色彩が剥がれ落ちてしまったのは……。思いだそうと気持ちを寄せれば、押し潰される息苦しさが襲ってくる。あたしは楽になりたくて、色を失った風景を記憶に上書きした。
けれどセピア色の、明暗しかない単調なグラデーションの中でさえ、あの海と空は強烈に降り注ぐ南の島の日差しを表す事が出来る。色を失ってなお心を縛りつけて放さない。ドラッグ漬けのジャンキーのようにあたしは懇願する。
取り戻したい。あのブルーを……。
不機嫌な肌(バンドス)
何度繰り返しただろうか。
『どうして?』 この台詞を。
やがてあたしは諦めた。今の時代珍しいことじゃないらしい。
セックスレス。
結婚してまだ三年だというのに、そんな今どきの夫婦に成り下がっていた。
『なんとなく』
『そんな気になれないだけ』
『疲れが溜まってるんだ』
ダブルベットのシーツの隙間から手を差し伸ばすと、そんな拒絶が暗い部屋の中、溜息すら添えられて響いた。
『どうして?』
数ヶ月も過ぎれば、淡白なタイプのあたしでも問いたださずにはいられない。
『理由なんてないんだよ。ただ気分にならないだけ』
夫……亨(とおる)は、少しだけ申し訳なさそうに小さな声で言った。
拒絶を繰り返されるうちに、いつも間にか自分から求めることすら諦めてしまった。 心が枯れ果ててしまったから……。
体が離れると気持ちまで遠のいていく。肌の触れ合いがないと、身も心も干上がってしまうようだ。
このまま年を取ったら?
そう考えると恐ろしかった。もうすでに触れ合わなくなってから一年が過ぎようとしていた。
諦めてしまってからは時間が経つのが早くなった。だけどまだ見切る前は、彼の寝息を耳にしながら息を潜め、辛く長い夜を繰り返し耐えてきたのだ。
ドウシテ?
他ニ女ガイルノ?
アタシノ体ニ飽キテシマッタ?
ネエ……ドウシテ?
モウ、愛サレテイナイノダロウカ。
その事を口にさえしなければ、穏やかな夫婦の時間が二人を通りすぎていった。週末は料理が趣味の亨が作るランチを、ベランダでのんびり食べて、一緒に映画へ出かけたりする。子供もまだいない気楽な週末。はたから見たら仲の良い夫婦に見えただろう。だけど、その腕に寄り添う事すら止めてしまったあたしの変化に、亨は何も気付きもしない。
出会ったきっかけは同じ趣味のダイビングだった。恋人時代から色々な海に潜りに出かけた。
沖縄、サイパン、パラオ……。そして、最後に行き着いた場所はインド洋の小さな島々。
蒼いラグーンに奇跡のように浮かぶダイビングのメッカ、モルディブ。海の底だけでなく、独特の楽園の空気にすっかり魅了されてしまった。
灼熱の陽射しにさらされながらも、冷やりと肌に触れる白い砂浜。心地のよいパームツリーの木陰で、当たり前にもたれ掛かった日に焼けたコ コア色の腕を思い出す。温もりに酔い知れた日々。
幸福に香りがあるなら……陽差しを閉じ込めた甘い匂いさえ漂っていた。
だが、いつの間にか亨は再び旅立とうとは言わなくなった。あたしを求めなくなったのと、青い環礁から遠のいたのは、ほぼ同時だった。
人目も気にせずに愛を囁き合う恋人達の小さな島々は、さぞかし居心地が悪いことだろう。島の花びらでデコレーションされる、南の島のベットメーキングのサービスなど、彼にとってはありがた迷惑に違いない。
随分昔のことのような気がする……休暇のたび、愛を確かめ合う為に南国の島々を巡り渡った日々。
日常のしがらみなんて全て脱ぎ捨てる事が出来た。シンプルにお互いの気持ちを確かめ合う時間だけが存在していた。
ブルーに包まれた島での日々は、二人の愛の象徴だった。その記憶が何よりも今のあたしを苦しめた。だから想い出を淘汰しようともがいたのだ。もがいて苦しんで、やっと色彩だけでも引き剥がすことが出来た。 もう、あのブルーはあたしの瞼を覆わない。それだけでも救われた。 息つぎをする隙間さえ、やっと今は、彼との間に見い出す事が出来るのだから。
今のあたし達に二人で生活を続けていく理由なんて残っているのだろうか? 彼にはあるらしい。いや、違う言葉を亨は使った。
別れる理由がないと。
セックスレスは彼にとっては、たいした問題ではないのだ。
前に泣きながら、このままおばあちゃんになるなんて耐えられないと訴えた事があった。その内またそんな気分になるさと、困ったみたいに、だけど暢気に亨は言った。
あたしは尼僧じゃない。悟りもひらいてなんていない。
諦めたと思っていながらも、時々言いようのない空虚感に気がふれてしまいそうな感覚に襲われる。
離れて眠るダブルベッドは、何て残酷な冷たい海だろう。一人で眠るシングルベッドのほうが、淋しい身体をを温めてくれるに違いない。隙間なく身体に巻きつけた毛布に包まり、愛しい人の不在を悲しみながら眠る夜のほうがどんなに救われるだろう。胎児のように背中を丸め、彼との間に生まれる隙間だらけのベッドの中で孤独を噛み締めるよりは……。
最近あたしは心の処方箋を見つけた。セックスレスで悩める人々が集うホームページ。こんな思いをしているのは、自分だけじゃないという安堵感。同じ苦しみに葛藤する人々の本音が綴られた文字を噛み締めながら追いかけた。 掲示板に書き込まれた数々の体験談は、あたしを救いもしたし更に不安にもした。この状況を五年、十年と重ねている人でさえ珍しくはなかったのだ。
そんな中あたしは同志を見つけ出した。性別こそ違うものの、分身かと思うほどに状況が似ていたのだ。
“結婚してから三年。子供無し、妻との日常生活は、セックスレス以外何の問題もなく違和感のある平和な日常です”
最後にその人はこう書き記していた。
“性欲を満たしたいわけじゃない。身体と一緒に心を抱き締めて欲しいだけなのです”
あたしはその書き込みの主にメールを出した。異性の方がお互いのパートナーの心情を色々と汲み取りやすく、思いもかけないことに気付くかも知れないからと。同じ悩みを持つもの同士、会った事もない相手に不思議なくらい赤裸々に自分をさらけ出す事が出来た。
浅野と名乗る男は、年も二十九歳と同年代。砕けすぎず、だけど堅苦しくもない丁重な文面は、心地良くあたしの心に染み渡った。 何度かメールでやり取りをするうちに、まだパートナーと上手くいってた頃の話題になった。驚いたことに浅野はモルディブを知っていた。新婚旅行で一度行ったことがあると。また訪ねてみたいとメールには書いてあった。そんな偶然は運命ではないかと、あたしの思考回路を混乱させた。
そう、運命。
夫ではない男に興味を持つ言い訳に相応しい。
ネットで知り合って……なんて、別世界だと思っていた。だけどこうして傷を舐め合うみたいに出会ってしまったのだ。
「明日、会社で送別会があるから、帰り遅くなるわ」
「そう、俺は明日は早く帰れそうだからのんびりDVDでも見てるよ」
こんなときに限って、早く帰宅するとは皮肉なものだ。
「たまには羽目を外してして飲みに行くのも悪くないよな。ゆっくりしてきなよ 」
嫌味ではない。だけど、胸の奥がちりちりと痛んだ。罪悪感? いや、こんな時に優しさをみせる彼の心遣いに胸が痛むのだ。
先に眠ってしまった亨の隣にそっと忍び込む。慣れてしまった夜。薄暗い空気の中、寝顔をじっと見つめる。
嘘をついた。
明日、会うのは浅野だ。
どちらからともなく、そういう話になった。ひょんなことから、お互い意外にも勤務地が近い事に気付いたのがきっかけだった。
食事をして、その後グラスを傾けながら話をする。そんなのはきっと建前だと思えた。
暗い天上をじっと凝視する。見慣れた無機質な壁紙がゆらゆらと揺れて見えた。あぁ、海だ。 逆さまに、真上からあの海があたしを見下ろしている。 色彩の剥がれ落ちたセピア色の波が、ぽつりぽつりと雨のような粒を滴らせている。シーツの中で、あたしは降り注ぐ冷たい雨に今夜も凍えている。
「何だか緊張するな……初めまして浅野です」
六本木の駅前の本屋。指定された作家のコーナーで、先にその男は待っていた。
品のよいキャメルのコート。夫とは違うタイプ。ちゃっかりと一瞬のうちに値踏みをしている自分に呆れた。
だけど、悪くない。
「赤いトレンチコートって言われて、随分派手な色だなって思っていたけれど……シックな赤なんだね」
「あっちに似たようなコートを着た子を見かけたわ。間違えて声、かけちゃわなかったかしら?」
「あ、うん、赤いトレンチコートもう一人向こうにいるの俺も見たんだけど……君が真っ直ぐこっちに向かってくるのが見えて安心した」
「安心したって?」
「俺の待ち人、この人だといいなって思ったから」
「あら、お上手ね」
お世辞だなんてわかっている。 だけど嬉しかった。店を出て、並んで歩く。
「おなか減った?」
「ううん。お昼遅かったし、ふふっ、これでも緊張してるのよ。食欲ないわ。貴方は?」
「俺も」
「じゃあ、飲みにでも行く?」
「……うん、そうだね」
遠まわしな探り合い。だけど、さすがに初めて会った者同士。気恥ずかしさが先に立つ。顔も知らなかったのに、既にお互いの赤裸々なプライベートを語り合っているんだもの。不思議なものだ。
賑やかな金曜の夜の六本木。喧騒を通り過ぎると、ふと目の前にぼんやりとそびえ立つ東京タワーが遠目に見えた。
「ねぇ、アレ登った事ある?」
あたしの問いかけに、彼は一瞬何を言われているのか理解できなかったようだ。だから、言葉をすり替えてもう一度尋ねてみる。
「東京タワー、奥さんと登った事あるかしら?」
奥さん……この場でその名を出すのは無粋だっただろうか。けれども二人の間でお互いパートナーがいる事は当たり前に周知の事実だ。その事を今更押し隠して話をしてみても、茶番だと思えた。
「いや、学生の頃付き合っていた彼女といったことはあるけれど……君は? 旦那さんと行ったことあるのかな」
「ないわ。子供の頃、祖父母に連れられて行ったきりよ」
「じゃあ、行ってみようか?」
目的を持った二人の足取りは軽いものへと変わっていた。並んで歩いているうちにふと指が触れ合った。
温かい指先。
冬の気配をひたひたと感じさせる夜の空気は冷たく、吐く息をほんのりと白く染め上げていく。そっと、浅野の大きな掌があたしの指を包んできた。家で帰りを待つ、あの人以外の体温に触れたのは何年ぶりだろう。きっと浅野の妻も、今日は遅くなると告げられた夫の帰りを気楽に待っているに違いない。淋しさがあたし達を繋ぎ合わせた。
東京タワーまで二十分くらい歩いただろうか。繋いだ指先から甘い感触が伝わってくる。すれ違う、週末を楽しむ恋人同士達。あたし達も彼らと何ら変わりないカップルに見えることだろう。それが嬉しかった。ずっとずっと、ありふれた幸せから、放り出された疎外感に苦しんできたのだから。亨と並んで歩いていると、尚更に孤独を深めることもしばしばだった。だけど今日は……。
ねぇ、フェイクだなんてわかっている。だけど同じ傷を背負う者同士、ひと時の恋人気分で癒し合うのも悪くない。
「名前、聞いてもいいかな? 本当の名前じゃなくてもいいよ」
名前……こんな出会いで本名を名乗るのは、やはり無用心なのだろうか。
少し間を置いてあたしは答えた。
「美咲」
「美咲……綺麗な名前だね。今日だけ、そう呼んでもいいかな」
いいわよ。そう言うかわりにあたしも同じ質問を返す。
「貴方は?」
「俺? そうだなリキって呼んで貰えるかな」
浅野リキ……。本名なのだろうか? いや、そんな事はどうでもいい。仮初めの名前が相応しい夜なのだ。眼鏡をかけた男とは今まで不思議と縁がなかった。けれど隣を歩く男の、スタイリッシュな銀縁のフレームは意外なまでに興味をそそられる。浅野……いや、リキの知的で大人な雰囲気を、一層引き立てている。眼鏡を外した瞳から、どんな眼差しを注がれるのだろう。そんな事を考えている自分はふしだらだろうか。
東京タワーの切符売り場は意外な混雑をみせていた。リキが買った切符を手渡してくれる。大展望台から覗く東京の夜景。高速道路をおもちゃのような車の光が流れていく。
手はずっと繋がれたままだ。お互い、一人になる事に怯えるかのように、指先を絡め合う。
「ハネムーンでモルディブ……どの島に行ったの?」
手を繋ぐ男に、こんな質問をする女がいるだろうか。そう思いながらも確かめずにはいられない。
「バンドス」
「偶然。その島、去年、あたしも行ったわ。日本人に馴染みの深い島だものね」
「クタバンドスって言ったっけ、隣島の無人島。そこまで泳いで渡ったんだ。マンタの群を見てさ、驚いたよ」
「あら、運がいいのね。シュノーケルでそんな大物、なかなか見れるもんじゃないわよ」
「美咲……はダイバーなんだよね。モルディブ何回行った事あるの?」
「独身の頃から五回くらいかしら」
「すごい。羨ましいな。ご主人もダイバーなんだね」
「…………」
一瞬言葉に詰まった。自分から言い始めた話題だというのに。軽く息を吸い込み、微笑んでみせる。
「えぇ、そうよ。全部彼と行ったの」
南国の情景が、フラッシュバックのように頭の片隅をかすめ過ぎていく。けれど、それはやはりセピア色の色彩のない風景。
「ねぇ、知っている? 今はないらしいけれど昔々はヌーディストが集う島もあったんですって。あの楽園のビーチ、裸で寝転んだらさぞかし気持ちがいいでしょうね。去年、最後に訪ねた島がバンドス。それっきり一年以上もご無沙汰よ。そういえば夫と最後に抱き合ったのもバンドスのコテージだったわね」
天上まで伸びる大きなガラス越しに連なる高層ビルを眺める。同情の眼差しを斜め上から感じたが、あたしは真っ直ぐ前を見据えたままでいた。
「……俺は最後抱き合ったのなんていつだろう。もう思い出せないんだよね。あれ? どうして? と思っているうちに、二年以上経ってしまった」
「またモルディブの海の前で寝転んだら、今の悩みなんて馬鹿みたいに感じる気がするの。どうしてセックスしなきゃ愛を確かめ合えないなんて、ちっぽけな事に悩んでいるんだろうって」
「でもさ、あの雰囲気の中で過ごしてやっぱり求められなかったら、悲しいよな。俺、さすがに立ち直れないかも」
ぎゅってすがるようにリキの指に力が込められる。落ち着いた雰囲気の彼には意外なほどの子供っぽい仕草。強がりをみせない素直さに、あたしもありのままの告白をする。
「そうね、あたしもよ。死にたくなるかもしれないわ」
会話が途切れた。しんとした沈黙の空気の中、きらびやかなネオンの海を眺める。不思議と居心地がいい。
「今夜は……」
そう言いかけて、リキは言葉を濁した。その先の台詞に戸惑いを隠せない様子。
「遅くなるって言ってあるわ。たまに破滅を外して飲みに出掛ける事に、目くじらをたてる人でもないから。あ、でも羽目の外しかたが今日はいつもと違うかしらね」
「……無理強いするつもりはないんだ。ただこんな風に過ごして帰るだけでも……」
「馬鹿ね。いい子ぶる気もないけれど、これでも浮気なんて初めてなのよ。少しは無理強いしてよ。背中を押してくれなきゃ、一歩踏み出せないじゃない」
貴方は? 誘うような眼差しで問いかけてみる。
「結婚してから、浮気は初めてかな、俺も……」
「あら、真面目なのね。遊ぶことを知らない訳でもないのに。女と違って男の人がこんな立場だったら、すぐに摘まみ食いで不倫とかするものかと思っていたわ」
「結婚式で神様に誓ったからね」
苦笑いを添えたジョーク。だけど、その誓いを破る程の苦悩が彼を追い詰めたのだ。
続く
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