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不機嫌な肌(バンドス)2/2
あたし達はタクシーで場所を移した。溜池にある名の知れたホテルの一室からは、さっきまでいた東京タワーが見えた。
シャワーを浴びた後の熱を帯びた指先。東京タワーをなぞって窓ガラスに指を押し付けると、ふわりと曇り、跡がついた。明かりを落とした部屋から覗く窓ガラスは、ぼんやりとバスローブを羽織った女の姿を映し出している。自分じゃないみたいだ。こんな場所にいる現実感がない。
そっと肩に手を添えられる感触。後からシャワーを使ったリキが、いつの間にか背後に立っていた。眼鏡を外した彼の姿が、自分に重なる様子が窓硝子に浮かぶ。目を凝らしてみたけれどバスルームから漏れた蒸気のせいか、ぼんやりと曇って見えた。
そっと首筋にキスを落とされる。
身体の奥から沸き上がってくる甘い疼きに堪らず、そっと瞼を閉じた。
あぁ、また海が広がる。色彩の剥げ落ちた海の残像。ただ、いつもと違うのは、浅瀬に抱かれるような心地よさ。
もつれ合いながらベッドに倒れ込み背徳の時間をつむいでいく。
“性欲を満たしたいわけじゃない。身体と一緒に心を抱き締めて欲しいだけ……”
ねぇ、まるで傷だらけの自分を抱いているみたい。癒すように腕を回す。
優シクシテアゲル。
誰カニ寄リカカルノッテ心地イイデショウ?
彼はあたしの鏡だ。同じ眼差しで途方に暮れている。
悲シマナイデ。
イッパイ我慢シテ偉カッタネ。
ゴ褒美ノ、キスヲアゲルカラ。
唇に瞼に頬に……そっと口付けを繰り返す。眼鏡を外したリキは、心地よさそうに長い睫毛を伏せている。
気持チイイデショ?
抱キ合ウノッテ。
優シクシテアゲル。
アタシニ、ソックリナ貴方。
自分自身を癒すように、甘いキスを注ぐ。遠目に浮かぶオレンジ色の東京タワーが、ケーキに立てられたキャンドルのように見えた。
「煙草、頂戴」
手を伸ばした箱の中身は、最後の一本だった。
「半分こにしようか」
情事の後の一服を、ベッドの上で分け合う。リキはライターで火をつけたついでのひと口を吐き出しながら、指に挟んだ煙草をあたしの口元に運んでくれた。
ジジッ。
煙を吸い込むと、先っぽの種火が暗がりに灯りをともす。
快楽の余韻がのせいか、久々に味わう煙草のせいか、甘ったるい気だるさに身を任せる。男の腕枕にもたれる心地よさ。リキはシーツに流れるあたしの髪を弄んでいる。
「ねぇ、きっと同じ事考えてる。あたし達」
煙草の紫煙がマーブル模様を描いて漂う様子を眺めながら心の内を打ち明ける。
「……たぶんね」
リキは曖昧な台詞で合図ちを打ってよこした。
ホテルのエントランスから独りタクシーに滑り込む。六本木の交差点を左折し通りを真っ直ぐ抜けていくと、フロントガラスに東京タワーが浮かんで見えた。歩道にはさっきと変わらず人が溢れている。寒さをしのぐように寄り添う恋人達。目を反らさずに見詰める。
あたしはどうかしている……どうかしている。
沸き上がってくる不思議な感覚に違和感を覚えずにはいられない。早く家に帰って亨に会いたいだなんて。
空っぽだと思っていた。絶望、怒り、胸をえぐられる空虚感に吹き飛ばされ、愛なんて微塵も残ってはいないと思っていた。
数時間前、リキと待ち合わせの本屋に向かう途中、人の波に流されながら繰り返し自分に言い聞かせていた。これから起きる出来事は、離婚を思い切るいいきっかけになるだろうと。
だけど、他の男に抱かれて気付かされた想いは、意外な事実を語りかけてくれる。
愛シテル。
ネェ、マダ愛シテル……。
あたしはどうかしている……どうかしている。なのに、一片の罪悪感すら感じないだなんて。自分に呆れた。だけど、リキに出逢わなかったら、この気持ちに気付かないまま耐えきれずに見切りをつけていたに違いない。もう少し待ってみようなんて気休めは、尚更にあたしを傷付けるだけかもしれない。ベッドの上でリキが溢した台詞を思い返す。
「今日、出会ったのが美咲じゃなかったら、俺きっとタカがはずれたように繰り返し浮気に走る事になってたと思う」
「あら、あたしじゃ浮気相手には物足りなかった?」
「うん」
笑いを噛み殺して、拗ねた眼差しを投げてみる。
「君相手じゃ、遊びじゃ済まなくなりそう」
ホラ、同ジダ。
コンナトコマデ似タ者同士ダナンテネ……。
「だから、これっきりにしようと思う」
「……そうね」
そっとその胸に寄り添ってみた。トクトクと刻む鼓動が耳元に流れてくる。 残り少ない二人の時間をカウントダウンしているようだ。
「美咲を好きになっちゃったら、本当に彼女を失うんだなって気付いて怖くなった」
あたしは、背中にまわした手のひらで、優しく彼の肌を撫でてあげた。
ダイジョウブ。
ネ、ダイジョウブダカラ……。
もしかしたら、この出逢いは、新たな恋の始まりだったかもしれないのに。わざわざ古巣に戻って再びやり直そうだなんて、あたし達は本当にどうかしている。だけど、そこまでしがみつきたくなる相手と結婚できたのは、もしかしたら幸せな人生なのかもしれない。
翌日の土曜日は随分と朝寝坊をしてしまった。目が覚めるとベッドに亨の姿はなかった。時計は十一時近くをさしている。寝室を抜け出しリビングの扉を開けると、皿を運ぶ亨の姿が見えた。
「……おはよう」
「おっ、やっと起きたな。朝飯、昼と一緒でいいよな。とりあえずコーヒーがいい? それともカフェオレにする?」
「あ……うん。カフェオレ」
昨夜マンションに帰宅すると、亨はすでに眠っていた。夜が明けるまで飽きる事なく寝顔を眺めて過ごした。
「美咲、どうした。二日酔い?」
ぼんやりと席についたまま黙り込んだあたしを不思議に思ったのだろう。湯気をあげるカフェオレボウルを差し出しながら、亨がこちらの顔を覗き込む。
美咲……。
夕べ、何度そう耳元で囁かれただろう。リキに教えたのは本当の名前だ。美咲……美咲。何度もそう呼ばれて、口付けを落とされた。
気が付いたら、皿を置くために側に近づいてきた亨の唇に、すばやくキスを落としていた。離れる瞬間、薄く瞼をひらくと驚いたように目を見開いた亨の顔が見えた。
夕べ繰り返した行為は、数ヵ月ぶりに交わすおはようのキスをさりげなくみせる効果をもたらしたようだ。あたしは何事もなかったかのようにゆっくりと、カフェオルボウルに口をつけた。亨も席につくと、いつものマグカップでコーヒーを啜り始めた。
「いい天気だな、今日は何しようか。映画でも見に行く?」
映画を観にいくのは週末の定番だ。二、三時間かけて言葉も交わさずスクリーンを眺め、映画の内容がその日の話題の中心になる。あたりさわりない会話しかしなくなった夫婦には、うってつけのデートコース。
「そうね。今日は行きたい所があるんだけど……」
水族館の水槽の向こうでは、全く違う環境で生命が息づいていた。あちらから見たら、あたし達の方が囚われの身に思えるかもしれない。
アネモネフィッシュ。
オニハタタテダイ。
パウダーブルーサージョンフィッシュ。
見覚えのある魚達が、目の前をからかうように横切っていく。よちよち歩きの小さな女の子が、魚を追いかけて水槽の前ではしゃいでいる。
「おしゃかなしゃんっ」
たどたどしい言葉であたし達に笑いかけてくる。あっちの水槽、こっちの水槽、おぼつかない歩調で世界中の海をはしごしている。この水槽は南太西洋。隣の水槽はカリブ海。
「ほら、アイツがいる。美咲を追いかけ回したデカイ魚」
指を差しながら亨が可笑しそうに話しかけてくる。モンガラだ。バンドスのビーチでガジガジと珊瑚をかじっていたモンガラにしつこく後を追われた。ごつごつとした顔から覗かせる連なった細い歯が怖くて、泣きそうになりながら亨に助けを求めた。
産卵期は気が立っているんだよ。逃げよう。
口の端で笑いを堪えながら、亨はあたしの腕をコテージへと引っぱっていった。砂粒の絡んだ素肌でシーツに寝転がる感触……。
「ひらひら、ね、ちれいね」
幼い声色にはっと我に返る。さっきの女の子が、優雅に舞う熱帯魚に目を止めている。
「蝶々みたいね」
その子の目線までかがんで語りかけると、「ちょちょ」と嬉しそうに女の子は微笑み、母親の方にトコトコと歩いていった。
抱っこをせがんで小さい手を差し伸ばしている。
あたしはママになる日がくるのだろうか。そう思うと胸の奥がチクリと痛んだ。だけどそれはほんの一瞬。語りかけてくる意外な台詞が小さな憂鬱を振り払った。
「夕べさテレビの旅チャンネルでモルディブの特集をやってたんだ。録画しておいたから帰ったら一緒に観ようか」
もし、一昨日同じ事を言われたら、あの海への拒絶感でやんわりと申し出を断っていたに違いない。亨と肩を並べてソファーに座る事が、苦痛だと感じただろう。だけど今は素直にうんと言える。
「楽しみだわ」
向き合う勇気をリキはあたしに与えてくれた。
マンションに戻ると、すっかり日が暮れていた。二人で軽いオードブルを作りソファーの前のローテーブルに並べる。器用な手つきで亨はコルクを抜くと、ワインをグラスに注ぎ差し出してくれた。
「ありがとう」
真っ直ぐに彼を見据えてグラスを受けとる。視線が絡むと、亨は照れ臭そうに笑ってみせた。
「何だか今日は……美咲、雰囲気違うな」
「そう?」
一瞬、心臓が凍り付いた。少しだけ冷や汗をかきながらも、あたしは微笑んでみせる。
「録画、見るの楽しみだわ」
ウィンッ。
明かりを落とした部屋の中、画面いっぱいに映し出された風景は、水上飛行機からの空撮映像から始まった。
インド洋の真珠のネックレス。そう比喩される連なった環礁と、浮かび上がる島々。
剥がれ落ちた色彩達がそこに溢れていた。あたしにとって幸せを象徴するあのブルーが……。
ごく自然に彼に寄り掛かっていた。この海を目の前にした条件反射だろうか?
何かが狂ってあたし達の歯車は随分長く噛み合わなかった。
抱かない理由、なんとなく……。
ズレたネジがカチリと噛み合う音が聞こえた気がした。なんとなく、その気になったのだろうか? 彼はあたしの体を引き寄せたのだ。
わがまま。
自分勝手。
あたしを抱かない彼に、そんな罵倒を何度心の中で毒づいた事だろう。だけど義理で抱き合うような取り繕った関係だったならば、きっと本当にあたし達は終わってしまったに違いない。求められるその腕が、偽りのない欲望だという事実が一層心を揺さぶった。
モット、シテ。
モット、モット……。
快楽ニ流サレテ、切ナク歪ム貴方ノ顔ガ好キ。
真上カラ、落サレル眼差シニ、溺レテシマイソウダ。
どうして貴方じゃなきゃ駄目なのだろう。昨夜の男と何が違うというのだろう。頭で考えるよりも、忍び寄る感情が答えを教えてくれる。ひたひたと隙間を埋め尽くしていく幸福感に、心が震えて泣き出しそうだ。
テレビの光を反射して、天上がゆらゆらと揺れている。
あおいゼリー色の海。
眩しいものを目にした時のように瞼を閉じる。淘汰した島の色彩が、色を帯びた雨になって降り注いできた。
お互いの息遣いがまどろむような呼吸に変わる頃、いつの間にか画面はもうエンディングへと変わっていた。
「行くか? 久々に……この海に」
照れ隠しみたいに亨は言った。
素直にうんと頷いてみた。
あたし達を隔てていた理由。
それは、馴れ合いになった日常なのか、愛され続けて当たり前だなんて思っていた、おごりだったのか。
だけど再びあたし達を繋げたものは、どこまでも包み込む……。
あのブルー。
【END】
【目次】
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