リスク(アンガガ)2/2
美術館の顔合わせを機会に、三人でよく食事をしたり飲みに出掛けたりするようになった。あたしは機会を慎重に待った。焦ってはいけないと。そして的場があたしを『ケイ』なんて呼ぶくらい親しげになったところで、テストは実行されたのだ。
『美月ね、急に親戚の付き合いで映画に行けなくなったんだって』
話題のアジアン映画を観る為、夕方三人で渋谷に待ち合わせをしていた。その指定した場所に来たのは的場とあたしだけ。
『あぁ、さっき俺にもメール来た。仕方ないね、ケイと二人でデートしようか?』
いつも三人で並ぶ時は、間に美月が居た。だけどその日は的場と並んで歩いた。彼の肩の位置にあたしのおでこがある。今から観る映画の女優の話なんてしながら、的場を見上げた。そして映画が終った後は、そのまま同じビルにあるイタリアンでピザを齧った。
『豪快だなケイは。そんな大口開けちゃ、美人が台無しだ』
褒めているのか、けなしているのか。的場は美人なんて褒め言葉を投げてきても、含んだ裏の意味を感じさせない。罠を仕掛ける隙がないのだ。彼のあたしを見詰める自然な風情に、どう誘いをかけたらいいのか迷っていた。だけど、神様の悪戯か、外に出ると雨が降っていた。
用意周到にあたしは大きめのバックから折り畳みの傘を取り出した。そして寄り添うように雨をしのぎながら二人で歩き出した。
『ちょっとすごいな。小降りになるまでひと休みしようか?』
シャッターが閉まった店の軒下に避難する。女物の折り畳み傘よりはましだった。だけど変わらず肩をすり寄せないと、雨の雫がシャツを濡らした。
いつもは賑やかな街の雑踏が、雨の音にかき消されている。視界を遮る程の雨のカーテン。この街にぽっかりと的場と二人きりのような錯覚。
『美月と結婚するの?』
唐突に言ってみた。
『返事まだ貰っていないんだ。彼女がオッケーしてくれたらの話』
彼は困った表情のまま微笑んだ。
『美月のどんなトコが好き?』
『そうだな……いつも美月らしいところかな。正直で背伸びもしない。自分らしさを大事に持っているところ』
あたしが誰かに美月の事を聞かれたら、きっと同じ答えをしただろう。的場はうわべではなく、美月を理解していた。あたしと同じ視点で。そしてこの男は、美月の夢さえ叶えられるのだ。あたしに足りない物を全て与える事が出来る。
結婚や子供、あたりまえの家庭、普通の幸せ……。
あたしの肩のすぐ隣にある的場の体。今までの誰よりも、美月の温もりが染み込んでいる気がした。
その腕にもたれかかったのは、
演技だろうか?
無意識だろうか?
『あたしにも少しだけ分けて、その幸せ』
えっ? と的場があたしを覗き込む。顔を反らして彼の腰に腕を巻きつけ抱きついた。少し雨で湿った的場の胸に顔を埋めてみる。
『ちゃんと秘密守れるから……二人の邪魔なんてしないから』
的場の体から、刻む鼓動が聞こえる。
『今晩だけ一緒にいて? お願い』
そのセリフを吐き出してみても、的場の鼓動は静かなリズムだった。あたしは泣きそうな気持ちで顔を上げた。彼は、癒すような眼差しをあたしに落としていた。大きな手が伸びてきて、髪を優しく撫でられた。まるで転んだ子供に、手を差し伸ばすような仕草。
『こんな綺麗な子に口説かれて、喜ばない男はいないよな』
あたしは懇願するように、回した手に力を込めた。
『もしかして俺を試しているの?』
その言葉に心臓が跳ね上がった。だけど決して顔には出さず、素知らぬ振りで言い返した。
『そんなんじゃないよ。あたしじゃ駄目? 役不足?』
『だってケイは俺の事、好きなんかじゃないだろ?』
咄嗟に言葉が出なくて……だから首を振って否定してみせる。
『もう、止めるんだケイ。こんな事は……』
雨の音が遠のいていく。的場の放つ言葉だけが、耳元で響いた。
『そんなに美月が好きか? もしケイが男だったら、俺の出る幕なんて無かったよ』
驚いた。彼には見抜かれていたのだ。
本能的にじりじりと、あたしは後ずさりをして彼との距離を離していった。
雨が……幾千もの雨の粒が、体を跳ね上げる。
もう誤魔化せなかった。とんだ茶番に笑いそうにさえなった。そして開き直ったようにあたしは言った。
『こんな女が美月の傍にいて目障りでしょう』
『いや。美月にとってケイは必要な人間だ。あいつはいつもお前の話をする。ケイに憧れるって……綺麗で強くて、夢を実現させているお前が親友なのが誇らしいって』
涙は雨で流れて、あたしの全身を濡らしている。拭う必要も無いので、そのまま立ち尽くしていた。
『結婚を申し込んだくらいだ。美月の全てを受け入れる覚悟が俺にはあるぞ。ケイの事も含めてな』
こんなあたし、軽蔑されたって当たり前なのに。受け入れる……と言った的場の言葉が胸に響いた。
『ケイの部屋は代官山だろう? 歩ける距離だな。送って行くよ』
雨のシャワーの中に的場も入ってきた。
『傘は要らないな』
並んであたし達は歩き始めた。梅雨の生温い雨に打たれながら。沈黙があたし達を包んでいたけれど、それは居心地の悪いものではなかった。十五分程歩いて、あたしのマンションの前で別れ際に的場は言った。
『選ぶのは美月だ。だけど彼女が俺を選んでも、ケイに勝ったなんて思えないだろうな……きっとずっと』
部屋に帰って、濡れて体に張り付いた服を、引き剥がすように脱ぎ捨てた。裸の体にバスローブだけ羽織ると、水が滴るバックの中からスマホを取り出す。他の荷物に守られて、それは無事だったらしく、ボタンを押すと、ディスプレイが淡いブルーの色を放った。
『合格』
短い単語を書き込んで美月のアドレスにメールを送る。送信のボタンを押す指が馬鹿みたいに震えていた。だけど涙は……雨で洗い流されてしまったからだろうか? 一粒も溢れてはこなかった。
それから、しばらくして的場と美月は婚約をした。幸せそうにその報告をする美月。あたしは上手く微笑んでいるだろうか?そんな自分を悟られたくなくて、こんな言葉を口にしていた。
『婚約指輪、あたしがデザインしてあげるよ。美月の指に最高に似合う特別なリング』
カタマランヨットで他の島を、周ってみたいと美月は言った。まるで昔、あたしが話したモルディブの旅をなぞっているようだ。
幾つか他のリゾートを巡り、無人島でランチをした後、最後に小さな漁民の島に寄った。リゾートではない、現地の人々が暮らす小さな島。そのローカルアイランドは、あまり観光客が訪れない島なのだろうか? 何かを売りつける訳でもなく、物珍しそうに子供達がはしゃぎながら寄ってくる。
気が付くと美月が言葉も通じないのに、沢山の子供達に取り囲まれ、話し掛けられていた。そして美月は、地面に木の枝で絵を書いて、彼等と一緒に笑い、歌まで歌い出した。
童謡って言葉は関係なく、その単純なリズムが子供の心を捕らえるのだろうか。美月は身振りや砂に描いた絵で、歌の意味を教えながら『蝶々』を歌った。
子供に混じって彼らと同じ顔で笑う美月。あたしは少し離れてそんな彼女を見詰める。
こんな美月が好きだ。
南の島でのきらめくような一瞬を、シャッターの音で切り取っていく。まるで幼稚園の遠足の集合写真。真ん中には先生のように、美月が笑っていた。
アンガガに戻るカタマランヨットは、帆を南国の風で膨らませ、滑るように進んだ。
「美月が、あんなに子供好きだとは知らなかったな」
「可愛かったねぇ、お目々パッチリで。ケイは子供嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、どう扱っていいのかわからないもん」
ケイらしいねと、美月は微笑んだ。優しい瞳。
「……美月はいいお母さんになるよ」
呟くように言ってみた。照れた顔で美月は、はにかんだ。だけどその台詞は、ひと月後に結婚を控えた彼女には現実的過ぎる。寂しさがじわじわと、あたしを蝕んでいく。……行ってしまう。
甘える振りをして、美月に寄り掛かってみた。
「いっぱい遊んで眠くなっちゃった」
美月は優しく肩を貸してくれた。
「ケイが子供みたいね」
涙が溢れそうで……。それを悟られないように、俯いて寄り掛かる。アンガガに着く頃には潮風が、少し潤んだ瞳を乾かせてくれるだろう。目を閉じて美月の温もりの中で癒されたかった。
永遠に続けばいいのに。
この島での一週間を、ずっと繰り返して生きていきたかった。だけどそれは夢。 最後の夜は巡ってきたのだ。
ラストディナーのテーブルは、可愛らしくデコレーションされていて、あたし達の最後の夜を華やかに演出してくれた。
明日は仕事がオフで会えないからと、小さなブーケを差し出してくるスタッフさえいた。温かいもてなしに、胸がいっぱいになる。
レストランから部屋に戻る帰り道で、美月は「また来たい」と繰り返し言った。
その時、隣にいるのは的場だろう。こんな素敵な夜に、そんな事を考える自分が悲しかった。
水上コテージに戻ると、床下の海が覗けるように作られた、六角形のガラステーブルにライトをつける。ぼんやりと暗い海面に映る灯りに、魚達が集まってきた。
暗い影が光に照らされて、水面に近づく時にだけ、鮮やかなウロコの模様を浮かび上がらせる。
その様子を言葉少なく、二人で見詰めた。
「いよいよ来月だね、結婚式」
美月は何も答えない。あたしは自分に言い聞かせるように、同じ台詞を心の中で繰り返してみた。
「帰りたくないな……結婚するの、やめちゃおうかな」
決して言ってはいけないその一言を、あたしは口に出してしまったのかと冷や汗をかいた。だけど、その言葉を溢したのは、美月だったのだ。
「……あたし怖い」
消えそうな小さな声は、震えていた。
「幸せな結婚するのが夢だなんて、笑っちゃうよね。男の人と暮らしていく現実がそんなに甘くないって、あたし知っているもの。小さい頃のパパの記憶は、いつもママと喧嘩ばっかり……」
美月は泣き出した。背中を丸めて、膝を抱えて、小さく漏れる嗚咽を噛み殺しながら。そんな風に泣く彼女を、抱き締めずにはいられなかった。美月は不安で震える体を、あたしに預けて泣きじゃくった。
「ケイが男だったら良かったのに……そしたらあたし、何も考えずに安心して飛び込めるのに……」
「何かあったら、いつでもあたしの所においでよ」
美月は首を横に振った。
「ケイだって好きな人が出来たら結婚しちゃうよ。すごいモテるんだもん、ケイは……。皆、ほっとかないよ。この島でも一番のベッピンさんだもの」
白雪姫の魔法の鏡のような台詞に、あたしは苦笑いをした。
「幸せを知らないあたしが、幸せな結婚なんて出来る訳がないよ……」
駄々をこねた子供のように、泣きじゃくる美月の頬を、涙を拭いながら両手で優しく包んであげる。そして、あたしはその温もりを引き寄せて……慰めるように美月の唇にキスを落とした。
美月はビックリしたように目を見開いて、あたしを見詰めた。触れていたその唇に、そっと指を添えている。
「いつでも空けておくから、美月の場所」
さっきと同じような台詞を、もう一度口にする。だけど今度は、本当の意味を含んで彼女に伝わっただろう。
「何年か後に、あたしも結婚なんてする事があるかもしれない。だけど美月が一番、ずっとずっと、あたしの一番大事な人だよ。美月の場所を持たせてくれないような男とは、結婚なんてしないから」
「馬鹿だよ……ケイは、あたしなんか……」
そう言って、また泣き出した美月を抱き締めながら、最後の夜を寄り添って眠った。いつもの夜のように。だけど、何故かすごく心は満たされて。眠った美月の手のひらに、そっと自分の指を重ねる。彼女の温もりが、ただ愛しい。その暖かさに包まれて瞼を閉じる。そして深い深いモルディブの海に沈むように眠った。
成田の空港に、的場が迎えに来ているのが小さく見えた。行っておいでよと、美月の背中を優しく押してあげると、躊躇したように美月は振り返った。だから、小さく耳元で言ってあげた。
「夢はね、自分で掴まなきゃ駄目だよ。アイツはあたしが認めた唯一の男なんだから。ね、大丈夫。飛び込んでおいで」
小さく頷いた美月が、一歩踏み出そうとした時、おどけた声で付け加えた。
「あの話、子連れになっても受け入れ可能だから」
また美月は振り返った。だけど、今度は笑っていた。そして、ちょっと拗ねた視線で、あたしを睨んだ。的場に向かって走っていくその後姿が、淋しくないと言ったら嘘になる。だけど何かが吹っ切れていた。
終わった訳じゃない。愛し続けることは自由なのだと。
あたしは、この一週間を生涯忘れる事はないだろう。繰り返し繰り返し、何度この日々を思い返すのだろうか。
決して色褪せる事がない。
そんな一週間が、人生にはあってもいいのかもしれない。
【END】
【目次】
百合 小説 GL モルディブ アンガガ