誰だって一つくらい持ってるだろ?
ただ寄り添っているだけで満たされていた恋人時代。
愛があれば何もかもが許されて、夢を齧って生きていけるなんて信じていたあの頃。
だから彼女は言ったんだろうか。
海と空しかない。こんな島で暮らしてみたいだなんて…
【小説紹介文】
モルジブ ココアアイランド 子供 小説 無料
あおいゼリー
誰だってひとつくらい持っているだろ? ただ寄り添っているだけで満たされていた恋人時代。夢があれば何もかもが許されて、夢を齧って生きていけるなんて信じていたあの頃。
だから彼女は言ったのだろうか。海と空しかない。こんな島で暮らしてみたいだなんて……。
あおいゼリー(ココア)
ドーニと呼ばれる質素な船から、ダイビング機材を桟橋に積み上げている時だった。桟橋をゆっくりとこちらに向かって歩いてくる母娘が見える。
日本人っぽかった。最近は中国人もちらほらと見かけることも多くなったが、モルジブを訪れるアジア人の大半はやはり日本人だ。
桟橋の上の母娘は、近づいて来るとチラチラとこちらを見た。この島には日本人のホテルスタッフはいない。だからダイビングスタッフといえども日本人だという安心感からか、 俺はダイバーでもない日本人ゲストからよく声を掛けられた。きっと夕べ到着したゲストだろう。
「こんにちは」
俺は愛想良く声を掛ける。母親の影から少女がひょっこりと顔を出した。肩のあたりまで伸びた黒髪。日本人形のように小ぶりな整った顔立ちの中で、大きな切れ長の目が印象的な子だった。
あれ? 懐かしい気がした。だが、子供の知り合いなんて俺にはいない。リピーターのゲストだろうか? だけど母親には見覚えがなかった。
「あの……」
少し戸惑った様子で、母親が俺に何かを言い掛けた時だった。トコトコと少女が目の前まで歩いてきた。
「まさかおじちゃんが、マキムラリュウじゃないよね?」
まさか? どういう意味だろう。俺がその牧村龍ではマズイみたいではないか。母親は、そう声を掛けた少女を唖然とした顔で見ている。そして慌てた様子で、その子の事を「ミウ」と呼んだ。けれど女の子は母親を振り向きもせず、俺を真っすぐ見据えている。
「そうだよ」
そう答えるしか言いようがない。だって、俺がそのまさかの牧村龍なのだから。
「えっ、ホントに?」
期待を裏切られたようなその口調に、何故だか申し訳ない気分にさせられる。だけど突拍子ないこの会話が俺には理解不能で、助けを求め母親に視線を移したが、彼女はまだ唖然とした仕草で娘を見たままだ。その様子も違和感を感じるもので、狐につままれた状況に、俺は困ってしまった。
「ホントにホントに、ヨウコちゃんの元彼の?」
元彼……日本を長く離れている俺には慣れない日本語だ。なんて軽い響きだ。いや、そんな場合じゃない。ヨウコって今、言わなかったか?
ヨウコ。
その名は懐かしく、俺の胸の奥底を静かに揺さぶった。彼女の姿が瞼に浮かび上がって、あっ、と俺は驚きの眼差しで再び目の前の少女を見た。この子、ヨウコに似ているのだ。最初に感じた懐かしさの意味を俺は理解した。
「初めまして、あたしヨウコの姉の金谷と申します」
遠慮がちな様子で、子供の手を引きながら彼女は言った。
「ヨウコの……そうですか、じゃあこの子は……」
「ヨウコの姪のミウです。7歳になったばかりです」
何故かその言葉に、安堵している自分がいた。ヨウコの子供だと言われたら、何となくショックを受けていたような気がしたのだ。馬鹿か俺は……。今更、未練がましいものでもあるのだろうか。彼女達と一緒に、もしかしてヨウコもこの島にいるのかもしれない。俺は焦った。
「ママと二人だけで来たんだよ」
見透かすようにミウが、悪戯っぽくそう言った。
「モルジブへ行くならおじちゃんの居る島に行きなさいって、前にヨウコちゃんが言ったの」
「どうして?」
意味が掴めなくて、子供みたいな口調でそうミウに尋ねていた。
「だって、おじちゃんが一緒に遊んでくれるから」
あまりにも素直な答えに気が抜けて……そっか、と俺は苦笑いしていた。クスクスと、その子、ミウは小さく笑うと「ねっ」と母親を見上げる。困った顔で彼女は申し訳なさそうに俺に視線を移した。
そういえば、結婚して鎌倉の実家の傍に住んでいる、5歳年上の姉がいるとアイツ言っていたな。そんな会話を懐かしく思い、俺のいる島を薦めてくれたことが、何だか嬉しくさえ感じてきた。
「ようこそ、ココア・アイランドへ」
ちょっとだけ芝居がかったように大げさに両手を広げて、俺はその思わぬゲストを歓迎したのだ。だけど、まだミウは納得がいかないらしい。
「おじちゃん昔の写真と全然違うのね。そのお髭……熊になっちゃったのかと思った」
昔って言ったって、ヨウコと付き合っていた二年間、あの頃俺は二十四、五だった。今だってまだ三十三歳だ。そんなに変わったか? 俺。確かにあの頃と違って熊みたいな髭面だし、灼熱の陽ざしにさらされて、野性化すらしたかもしれないけれど……。繊細な俺は、ほんのちょっとばかり傷付いてしまった。
「ミウね、昨日はお船のコテージに泊まったの」
さっき出会ったばかりだというのに、得意そうにそう話すミウを、何故だか愛しい気持ちで見詰めていた。
ココア。たった二十五室しかない、東西に伸びる美しい砂州を持った島。ビーチコテージはなく、モルジブの伝統的な船、ドーニをイメージして作られたユニークな水上コテージが、悠然と桟橋に連なる。そして美しいこの島は、磨き抜かれたサービスを添えて、ゲストに飽きることのない楽園の日々を約束するのだ。 部屋数が少ないだけに予約が大変だが、日本人にも人気のある島だった。
ミウの泊まったコテージ、それはドーニの形をしているだけで船ではないから動き出す事はない。けれども、この素晴らしく居心地の良い水上コテージで眠る夜は、モルジブの海に浮かぶ極上の夢を約束してくれるに違いない。
ミウはよくダイビングセンターに顔を出した。
「ママは?」と聞くと、いつもデッキテラスで本を呼んでいるのだと答える。今、ハネムーナーばかりでダイビングをするゲストはほとんどいない。だから確かに俺は暇だった。暇なのだが……。
一年前、元々日本人が経営するこのダイビングセンターを俺は譲り受けたばかりだった。やっと手にした自分のダイビングセンター。こんな暇でいいのだろうか? いや、この格別なノンビリさが気に入ってこの島、ココアに腰を落ち着けたのだ。
知り合いなのかと、タイビングスタッフでイタリア人のアルジェリオが問いかけてくる。昔の恋人の……なんて説明は面倒臭く、親戚なのだと答えた。すると奴は、自分がフォローするから、ミウとの時間を大事にしろと言った。情けの深い男だ。俺を羨ましそうに見詰めすらしてくる。
半年前に離婚されて、ホテルスタッフをしていた妻とまだ小さな娘に、島を去られたのが相当な傷のようだ。ミウの事も随分可愛がってくれる。そして、娘のように頭なんか撫でながら、女を口説くような台詞でミウの髪を褒めあげる。
なんて綺麗な髪だ。まるで絹糸を黒く染めあげたようじゃないか。
奴はまだ懲りてないらしい。その天性の女好きが、妻から捨てられた一番の原因だというのに。だけど奴をそこまで唸らせる、ミウと同じ髪をもつ女に、昔、俺は恋に落ちていたのだ。ミウと一緒にいると、ヨウコの片鱗がその面影に見え隠れする。 懐かしさと少しの後悔が心を弾いて、俺はその切なさに胸を痛める。
俺が初めてモルジブを訪れたのは、ヨウコがどうしても行ってみたいと言い出したからだ。元々ダイビングが趣味の俺は、そのインド洋の秘境の噂は耳にしていたので興味を持ってはいた。だけど、やっと日本のダイビングスクールでライセンスを取ったばかりの彼女から、そこに誘われるとは思ってもみないことだった。
『だって見ちゃったの、ほらコレ』
定番のダイビング雑誌を差し出してくる。表紙にはモルジブ特集と書いてあった。そんな事がきっかけで、俺達は小さな島をひとつ選び、この環礁に足を踏み入れたのだ。
この地の何もかもが驚きだった。
海も花も、島を取り囲む緑も、全てを引き立てるように埋め尽くされた、光を弾く真珠色の砂浜も。
あの時はまだエルニーニョの影響を受ける前で、島の溢れる色彩が、海の中まで続いていた。色とりどりな珊瑚礁と、それに群れる魚のカーテン。海に沈んだオーロラを眺めているようだった。
そして隣にはヨウコがいた。胸を揺さぶる程の感動を分かち、語り合うアイツが微笑んでいた。
いつもは下ろしている髪を、南の陽ざしのせいか、島ではいつも結い上げていた。白い首筋が見慣れなくて、二年も付き合っているというのに、今更のようにドキドキする自分がいた。
そして束ねた髪を、花びらが散らされたシーツの上でほどく瞬間……。その甘美な時間は、麻薬のように俺を虜にした。
再びヨウコに恋をした。島を包む南国のスコールにも似た激しさで、熱情は絶え間なく心に降り注いだ。
「おじちゃん、パパもあれ持っているよ」
ダイビングセンターの脇に、ひっそりと目立たなく置かれているシーカヤックを見つけて、ミウはそう言った。
「パパの船は赤だけどね」
このグリーンのシーカヤックは、俺の趣味でプライベート用の物だ。そうか、ミウのパパは海の男だったのか。親近感がわいてくる。
「ホントは一緒にくるはずだったのよ。でもお仕事が急に忙しくなっちゃったの」
ミウの顔に浮かんだ寂しそうな笑顔。そんな顔されたらさ……。俺は久しぶりにシーカヤックを引っ張り出した。
「ママも乗せてあげるから呼んでおいで」
その言葉に嬉しそうに頷くと、ミウは走ってコテージの方へ消えていった。
ミウの母親……ヨウコの姉とは、あの桟橋で出会って以来ほとんど顔を合わせていなかった。プライベートを重視して作られたコテージは居心地が良く、そこでのんびりと本を読むひと時は彼女を夢中にさせているようだ。ミウを自由にさせていても、一周十分ちょっとのこの島では迷子になりようもないし、俺やアルジェリオや面倒見の良いホテルスタッフに、すっかり安心しているのだろう。
ミウに手を引かれて、彼女は姿を現わした。腰に巻かれたパレオが似合っている。俺よりも年上なのだろうが、ヨウコとはまた違ったタイプの、知的で落ち着いた綺麗な人だと思った。
「ごめんなさいね。毎日ミウがお邪魔しているみたいで」
「いや、俺も楽しませてもらっています」
「あたしが遊ぼうって誘っても物足りないみたいで、目を離すとすぐに飛んでいってしまうのよ……困った子」
ミウ達が乗り込んだカヤックを、波打ち際からゆっくりと押し出す。帯のように広がって浅瀬に群れていたイワシの黒い影が、カヤックの先端から押し出されながら、その形を変えていく。俺が船に乗り込む頃には、船を取り囲む大きなドーナッツの渦のように漂って、鱗をキラキラと輝かせていた。
「こんなのパパが見たらビックリするね」
興奮し上ずった声で、ミウが母親に話しかける。その様子に満足してパドルを握ると、俺はゆっくりと漕ぎ始めた。
ヨウコの話は不自然なくらい、お互い避けるように話さなかった。
「どこまでの透明な海。ダイビングが出来たらまた違う世界があるのでしょうね」
「ええ、でもモルジブならシュノーケルでも充分楽しめますよ。コテージの先にあるドロップオフには行ってみましたか?」
「あの、海の色が変わっている境の所でしょう? 何だか怖くて」
「浅い場所でも魚は沢山いるけれど、ドロップオフは魚影の濃さが違うんです。カヤックの上から覗いてみましょうか?」
とっておきの初めての体験を二人に贈ろう。驚く顔を頭に浮かべて、俺は少しワクワクした気持ちで船を進めたのだ。
しばしの遊覧の後、元の浜にカヤックを着けた。ドロップオフの光景に興奮したまま、二人は瞳を輝かせている。砂浜に腰をおろそうとすると、アルジェリオに呼ばれて、ミウは休む事も無くダイビングセンターの方に走って行ってしまった。
「まだ胸がドキドキしているわ。あんな魚の群れ、初めてよ」
「コテージからすぐの場所だから今度はシュノーケルで行ってみて下さい。水の中で覗くとまたすごいんですよ」
「そうね、本ばっかり読んでいる場合じゃないわね。それはそれで心地良いのだけれど」
くすくすと満足そうに彼女は笑った。
「ヨウコがまた来たいって、言っていた意味がわかったわ」
不意打ちのように出たその名に、俺は少し動揺してしまった。
「ヨウコ、元気ですか?」
さりげなく、でも切実な気持ちで俺はそう言った。
「龍さん……」
彼女がそう言いかけた言葉を、ミウの大きな声が遮った。
「こっちこっち、早く来てっ。イルカの群れがあそこに見えるよ!」
今更、俺はヨウコの何を知りたいのだろう。あんな別れ方をして彼女を傷つけたまま終わってしまったのだ。
だけど、俺がいるこの島を、ミウに勧めてくれた。それはあの時の俺を許してくれているからこそ出た言葉なのだろう。それでいいじゃないか。
「イルカ、見に行ってみましょうか?」
さりげなく話の方向を変えて、俺はミウのいる方に向かった。
どちらかというと、子供はあまり得意な方ではなかった。だけどミウと島で過ごす時間は、見過ごしていた世界を俺に教え問いかける。
スコールの雨粒をつけた小さな蜘蛛の巣を、キラキラ光る観覧車と呼んでみたり、水平線に沈む夕日を見詰めて、あの向こうから明日が来るのだと教えてくれた。そして暗い海を漂う夜光虫の光に目を丸くし、あれは夜空の落し物だと語るのだ。
ミウの子供らしい物語は、見慣れた美しい南の島を、俺の知らない色彩で染めあげる。それは当たり前になっていたこの島の魅力を、新たな視点で再び輝かせてくれるものだった。
だから、俺もせめてものお返しに、ミウが喜びそうな島の名所を案内して回るのだ。ドクウツボの親子が住む小さな穴や、ロブスターのように大きなヤドカリの隠れ家。
ミウが笑うと、ヨウコも笑っている気がした。その錯覚は、俺の心を穏やかに優しく包み込んでくれる。
ドイツ人のダイバーのグループが新たに到着して、ダイビングセンターに活気が出てきた。明日、ミウはこの島を去るというのに、最後の二日間、ダイビングの予約で結構忙しくなってしまった。
午後のダイビングを終えて島に戻ると、砂浜でミウがカメラを構えている様子が目に入る。近づいて、何を写しているのかと覗き込むと、白い砂浜に刻んだ自分の足跡にレンズを向けている。
微笑ましい気持ちで小さな背中に声を掛けた。
「カメラ貸しなよ、ミウを撮ってあげるよ」
その声に驚いたようにミウは振り返って、はにかんでカメラを渡してきた。そして、「ちょっと待ってね」と、髪を手で整えている。七歳でも一人前の女の子の仕草。
「大丈夫、綺麗に撮ってあげるから」
ミウは、安心したように照れ笑いをしてカメラを見詰めた。
ちょうど日も暮れだして、淡い紫色の光を放つ空が背景になり、すごくいい写真が撮れた気がした。
「帰ったら、ヨウコに写真を見せてあげなよ」
自然とそんな台詞が口をついた。だけど、ミウは呆れた視線で俺を見上げる。そして、悪戯を咎める大人のような口調で言ったのだ。
「何言ってるの、おじちゃん。ヨウコちゃんは死んじゃったでしょう?」
悪い冗談だと思ったし、突然のその言葉に耳を疑った。
「死んじゃったから……写真なんて見せられないでしょう?」
ミウの瞳の端にうっすらと浮かんだ涙を見て、冗談ではないのだと悟った。
知らないの? 心底意外だという顔で、ミウは俺を見た。
早鐘のように心臓が鳴り響く。凍りついたように全身から血の気が引いていた。