ねえ、アンディ。日本の男だってこんな台詞さらりと言えないわよ。
彼氏に振られて荒れ模様のあたしに、異国の男が送ってきたメールにはたった1行のメッセージ。
『イノチミジカシコイセヨオトメ』
【小説紹介文】
命短し恋せよ乙女 ブルーアイズ
小説 無料 エリヤドゥ モルディブ
小さな海 (エリヤドゥ)1/2
彼は体の一部に海を持っていて、容易に人を溺れさせる事が出来る。
あがらう事を諦めてその海にゆっくりと沈んだなら、甘美な息苦しさに眩暈すら感じる事だろう。
吸い込まれそうなその青い色素を、隠すように閉じられた瞼に耳を寄せれば、あの海と同じささやかな波音すら響いてくる気がする。
小さな海 (エリヤドゥ)
“kumi、きょうは、つきがきれいです。まるいつきです。にほんもおなじですか?”
机の脇の窓から外を覗いてみる。微かに聞こえる雨音。空はどんよりと暗かった。何だかあたしみたい…なんて溜め息をついて、視線をパソコンに移す。
“Andy、こちらはあめです。つきはみえません。まるいつき、full moonは、にほんごで[満月]といいます。”
メールの送信を押す前に、読み直してみる。あっと、あたしは[満月]を[まんげつ]に打ち直した。そして送信ボタンをクリックする。
この瞬間もう、このメールは地球の裏側に飛んで行ったのだろうか?
短い日記のように届く平仮名だらけのメール。
これで何通目だろう。
イギリスに住む姉から、会社の友人の日本語の勉強にとメールフレンド役を頼まれた。深く考えずにいいよと言った。最初のメールから三ケ月くらいは経っているのかも。…いや、二ケ月半だ。彼と別れたあの眠れない夜に、初めてアンディのメールは届いたのだから。
今日、5年勤めた会社を辞めてきた。明日からあの二人を見なくていいのだ。逃げ出したような後ろめたさはあったが、もう限界だった。
今夜は眠れるだろうか?
会社の帰りに買ってきたワイングラスとシャンパンを机に並べる。同じ部署の女の子達が送別会をやろうと誘ってくれたのだが、断ってアパートに独り帰ってきたのだ。皆、あたしが辞める本当の理由が理由なだけに、それ以上無理に誘っては来なかった。
みじめな女に同情する?他人の不幸は蜜の味?
携帯電話の着信音が響いた。同期の会社の子だった。
“また、今度ゆっくり飲みに行こうね。まだそんな気分になれないよね。気が向いたらメールして”
贅沢な金色の液体をグラスに注ぐ。小さな気泡がキラキラとのぼっていくのを眺めながら、あたしは自分が本当に嫌な女だと思った。彼に裏切られてあたしは、心の中の暖かいもの全てが凍りついたような気がする。
本当は今頃、結婚式の準備に幸せを噛み締めながら、忙しい毎日を過ごしていたはずだったのに。会社を辞めるにしても、皆から祝福される、結婚退職のはずだった。あの日、あの扉を開かなければ…知らないままなら、こんな事にはならなかったのだろうか?
グラスの中身を一気に飲み干し、あたしは口元を濡らした甘いシャンパンをお行儀悪く手の甲で拭った。心が離れた男と一緒になったって、幸せになんてなれる訳もないではないか。
そう、あの日、オフィスの廊下の一番端にある小さな会議室の扉をあけてしまった。パンドラの箱だとも知らずに。
取引先から彼宛ての急ぎの電話を受けてしまい、知らせるためにその部屋に足を運んだ。明日の会議の為に資料をまとめる彼しかいないはずだった。急いでいたのでノックもせずにドアを開けた。
窓から差し込む西日を帯びた陽射しが眩しかった。そこで抱き合う二人のシルエットがぼんやりと映った。振り返る彼の仕草がスローモーションみたいにゆっくりと見えた。見慣れた背広の背中に巻きついた女の指のマニキュアだけが、妙に強い色彩を帯びていて、あたしは目の前の光景が夢ではないのだと悟った。
『KS商事から急ぎの電話入っています』
取り乱してわめかない自分が不思議だと思った。震えを押し殺して用件を伝えているその声が、知らない女の声みたいに感じていた。
彼の肩越しに相手の顔が見えた。遊び人で有名な新入社員の女だった。彼女は一瞬驚いたように目を丸くしていたが、じわじわとこの状況を楽しんでいるかのように口元を上げてみせた。二日後の週末には、目の前のこの男と婚約指輪を買いに行く予定だった。
彼はその夜あたしのアパートを訪ねてきて、彼女とは遊びなんだと言い訳をした。
『あら、余計にタチが悪いわね』
アンタなんて願い下げよと、吐き捨てるみたいに言葉を投げると、あたしは乱暴にドアを閉めた。あっけないなと思った。三年近く付き合って、ついこの前、結婚話が出たばかりだというのに…。バンッというドアの音と共に、何もかもが崩れ落ちた気がした。
そのまま癖のようにつけっぱなしにしているパソコンの前に座ると、帰り際、久しぶりに買ったタバコに火を付けた。彼と結婚を意識してから止めていたタバコ。紫煙は、ゆっくりと立ちのぼり、久しぶりのニコチンはあたしの頭をくらくらと揺さぶった。喉元に込み上げる嗚咽を堪えながら意味もなくメールのアイコンをクリックする。何通かメールを受信した中に見慣れないアドレスがあった。
タイトルは“はじめまして、Kumi”
悪戯メールかと思ったが“Kumi”と名前が明記してあることが気になって開いて見てみる。
"ぼくは、Andy 。
にほんはとおいくに。だけど、だいすきなくにです。
これからたくさんKumiとめーるしたいです。
ぼくは、だいびんぐがすきです。
kumiはみたことがありますか?さかなでつくられたかーてん。
とてもきれいなあおいうみのかーてん。
Kumiにもみせたいです。"
Andy…あ、おネェに頼まれたメールフレンド…。ダイバーなんだ?思わぬ共通点に親近感が沸いてきた。
彼が目にした深い海の青い世界を少しだけ思い描いてみる。
“Kumiにみせたい”
会った事すらない遠い異国の男に、最悪の出来事でボロボロになった自分を慰められている気がした。…そう、それが二ヵ月半前の出来事。
彼に裏切られた日から眠れない夜を繰り返した。だけど息を潜めた暗闇の中で、なんとなく浮かぶアンディの青色だけが、ぽっかりと隙間だらけのあたしを癒してくれた。
ねぇ、でもアンディ…あたし今日からは楽になれるのよね?今日あたしは、明日を憂鬱にするものを全て捨ててきたのだから。わざとらしく彼にすり寄るあの娘の事も、皆の同情の眼差しも、バツが悪そうにあたしを盗み見する彼の視線も。
だからお祝いに高価なシャンパンを買ったのだ。飲み切れなかったらバスタブに注いで贅沢な一時を楽しむのもいいじゃない。寝不足の眠い目をこすりながら、うんざりする一日の始まりに溜息をつく朝も、もう来ないはずだ。
もう一度今日着いたアンディからのメールを開いてみる。
“Kumi、つきがきれいです…”
部屋の電話のベル音。せっかく気分良く夢を見ていたのに、だぁれ?あたしを起こすなんていい度胸してるじゃない。
「もしもしくらい言いなさいよ」
は?電話に出るなり何よその台詞。しかも久しぶりの安眠を邪魔しといて。
「もう日本は確か十時よね?あんた会社大丈夫なの?」
この声…
「おネェ?」
「そうよ。誰だと思ったのよ。仕事いいの?」
「…うん」
「ははん、会社のあの彼と喧嘩でもしたの?」
何てツッコミだ。昔からお姉ちゃんは勘が鋭い。嘘をついてもすぐばれてしまうのだ。
「彼とは別れたの。会社も昨日辞めたわ」
「あらら、だからアンディあんなメールよこしてきたのか」
「アンディ?何だって?」
「久実はバカンスが取れそうだよって」
全然、訳が分からない。一体何の話だろう。
「可哀想な妹の為に、お姉ちゃんが奢ってあげるから、来週予定空けておきなさいよ。日本の旅行代理店の知り合いに飛行機のチケット頼んでおくからあとでまた連絡するわ」
「ねぇ…全然話みえないんだけど」
「あぁ、そうよね。実はダーリンと会社の友達と四人でダイビング旅行に行く予定だったんだけど一人行けなくなっちゃったのよ。あんた、ダイビングのライセンス持ってたよね?」
「持ってるけど…四人って、じゃあもう一人はあたしの知らない人って事だよね」
「アンディよ。あんたのメル友」
ちょっとびっくりして言葉の出ないあたしの代わりに、おネェは勝手に話を進める。
「モルディブの小さな南の島なんて素敵だと思わない?」
お姉は2つ年上だから29歳だ。去年赴任先のイギリスで電撃の国際結婚をした。職場結婚。あたしと同じ年の年下ダーリンはおネェの部下だったらしい。しっかり者の姉さん女房と、ほんわか人の良さそうな垂れ目の旦那。意外のようでお似合いのカップルだと思った。
「じゃあ、また連絡するから」
行くとも行かないとも言ってないのに、話は勝手に進んで電話は切れた。おネェには逆らえない。彼女の前ではあたしはいつまでも小さい頃と変わらず、スカートの裾を握りしめてトコトコと後を追いかけてくる子供のイメージのままなのだ。
“久実はバカンスとれそうだよ”
…なんで、アンディがおネェにそんな事言ったんだろう。パソコンに目をやると、電源がつけっぱなしになっていた。その脇に置いてあるシャンパンの瓶はからっぽだ。
グラスに残った生温そうなシャンパンが、甘い香りを部屋の空気に放っている。
…嫌な予感がして画面を覗く。
送信できました。というメッセージが画面のど真ん中にぽっかり浮かんでいた。送信簿を開くと真夜中、アンディへ5通も送信している履歴があった。覚えがない…冷や汗をかきながらひとつずつ開いてみる。
『さみしいよぉ』
『おとこなんて、みんなうそつきだよ』
『かいしゃ、やめちゃった』
『かれと、わかれた。かれと、わかれた』
『どこかにいきたい~』
血の気が引く音が聞こえる気がした。あたし、何やらかしたの?馬鹿みたいに何度も何度もメールを開いては閉じてみる。そうしている内に、受信簿に新着メールありのメッセージが、画面の右上でチカチカと光っている事に今更のように気付いた。アンディからだった。
開くのが恐かった。呆れたに違いない。彼の日本の女のイメージを急降下させてしまった。そんな事を思いながらメールを開く。タイトルは何もつけられていなかった。たった一行の短いメール。その文字に視線が釘付けになった。そして知らぬ間に笑いがこぼれた。
ねぇ、アンディ、この粋な台詞、日本人だってさらりと言えないわよ。メールにはこう記されていたのだ。
“いのちみじかし、こいせよおとめ”
美しく飾りたてられた4つのウェルカムドリンク。それは南の島のこれから始まるであろう素敵なバカンスを祝う食前酒のように置かれていた。ほんの一時間前、リゾートに向かうスピードボートが待つ桟橋でおネェ達と合流した。
何もかもがぼんやりと薄暗い中だった。早く早くと異国のスタッフにせかされてボートに乗り込まされたうえに、ものすごいエンジンの爆音に話し声も吹き飛ばされ、ゆっくり挨拶もしないままだった。
やっと島に到着し、このレセブションで改めてアンディを紹介された。
「彼が社内一のナイスガイ。アンディよ。すごいハンサムでしょ?」
そうおネェはそうアンディをあたしに紹介した。暗がりでは気付かなかったブルーアイズ。髪は柔らかなウェーブを描いたプラチナブロンド。瞳も髪も暗い色彩を持つ隣のガス…おネェのダーリンと違って、同じ外人といえども圧倒される雰囲気。それに映画のスクリーンから抜け出してきたような甘い顔立ち…それってもともと生まれつき?どんな遺伝子持ってるとそんな鮮やかな青やシルバーの色素が体に組み込まれるんだろう。
「ほめすぎ、カナ」
照れた仕草でアンディはおネェにそう言った。ちょっと待ったっ。彼の口からこぼれた今の言語…日本語だよね?
「喋れるの?」
挨拶も忘れ、あたしはアンディに思わずそう問いかけていた。今、彼が口にした日本語はあまりにも流暢だった。
「シゴトで一年くらいニホンに住んでたんだ。ヒヤリングとスピーキングはちょっとだけOKだけど…」
アンディは書く仕草をして、こっちは慣れてなくてダメなんだと言った。
「クミ、ボクもニホンゴ、ウマクなったよ」
人の良さそうな笑顔で、ガスもあたしに得意そうに話しかけてくる。狐につままれた気分でおネェに視線を移すと笑いを噛み殺しながらあたしに説明した。
「あたしたちのいる部署、来月から日本に移転するのよ。だから会社命令で不便がないよう日本語の特訓をしてるって訳」
「スパルタティチャー」
おネェを指さしながらおどけた仕草でガスがあたしに告げ口してくる。何よとおネェは拗ねた視線をガスに投げる。
「有能な先生と日本語で言いなさい。この島にいる間、あたしと久実には日本語オンリーですからね」
そんな厳しい言葉をガスに投げながらも、彼を見詰めるおネェの甘い眼差しにあてつけられる。まだまだ新婚気分ってやつですか?
ホテルスタッフがコテージの鍵を二組持ってきた。これから部屋に案内するからと。
「久実はアンディと同室ね」
そう言うとおネェはガスと仲よく手を繋いで立ち上がった。その手を引き千切るようにおネェを壁際に引っ張ると、ひっくり返った声であたしは彼女の耳もとで言った。
「な…何言ってんのっ?おネェ!」
「あ、心配ないから彼」
「はぁっ?」
チラリとアンディを見ると、ガスと二人で壁のヤモリを指さして楽しげに話しているのが見えた。
「いくらガスと甘いバカンスを楽しみたいからって、妹を会ったばかりの男とひと部屋に押し込むなんてっ」
「いいじゃない。あんなハンサム見た事ある?あんたも楽しみなさいよ」
返す言葉も見つからず唖然とするあたしをおネェは可笑しくて仕方がないといった顔をしている。そして、衝撃的な告発をしたのだ。
「アンディ、女は恋愛対象じゃないのよ」
うっそうと草木で囲まれた小道をボーイの後ろについて歩く。南国ムードタップリの夜の散歩道。だけどそれを楽しむ余裕がその時のあたしにはなかった。案内されたバンガローは1棟2室になっていて、隣はオネェ達の部屋だった。
「お休み~」
暢気に嬉しそうにそう言って、二人は仲良く隣のドアの中に消えていった。
「リラックスして、クミ。シャワーさきにどうぞ」
シャワー…その単語に顔が熱くなる。だって、いくら彼が女に興味がないからっていったって、あたしは意識しちゃうじゃない。自意識過剰とかじゃなくって…だって当たり前でしょ?
「あたし、時間がかかるからアンディ先にシャワー使って」
あたふたと身振り手振りを添えてあたしはそう言った。目の前の彼を直視出来ず、自分の視線があっちこっちを泳いでしまうのが判る。
「OK」
ふわりと髪をなびかせて、アンディはバスルームに消えて行った。しばしの沈黙にほっと溜め息をついてベットにうつぶせに倒れ込む。
おネェの奴…怒りより呆れた。昔からあたしの付き合う男にはことごとくクレームを付けてた癖に。
頭悪そう。
女癖悪そう。
服のセンスがない。
あの彼の事も婚約しようと思っているんだと報告したら、メールで彼氏の写真を送れと注文してきたのだ。一番よく撮れてる写真を送ったら…そうだ、こう返事が来たんだ。眉占いをする友人に見せたら、典型的な優柔不断タイプだって。流されやすいらしいわよと、ご丁寧なコメントを添えてくれた。
あれ…当たっていた?
いや、そうじゃない。今はアンディの事だ。おネェは昔から面倒見がいいタイプだ。だから数々の余計な一言はたった一人の妹を心配してのアドバイスだと思うことにしよう。そのおネェが…妹より旦那が大事になったのか?アンディはおネェにとって、男の部類に入らないのか?
そんな考え事に頭がぐるぐる回る。…眠い。あぁ、眠い。一日飛行機に揺られていたのだ。色んな事を考えるのが億劫になってきた。ベットに沈んでいくような感覚。ぼんりと聞こえるシャワーの音が子守歌のようだ。睡魔に全ての思考が吸い取られていった。
隣の温もりが心地よい。人肌の感触…えっ?
寄り添っているのは男の胸板だった。しかも上半身ハダカの。
白んだ朝日の中の見慣れない異国の男。まるで一夜の情事の後のような状況に、一瞬思考回路が止まった。
かすかに外から響く波の音が、始まった一日がいつもの日常ではないことを物語っている。…アンディなんだよね?何ヶ月もメールをやり取りしているのに、その彼と目の前の男が同一人物だとは信じ難かった。だけどなんて綺麗な寝顔なんだろう。男に対して綺麗なんて形容詞を使った事あっただろうか?
“アンディ、女は恋愛対象じゃないのよ”
夕べのおネェの言葉が頭をよぎる。何だかそういうのって彼なら納得できる気がした。そこいらの女より綺麗な肌と容姿。きっと周りの男はほっとかないのだろう。フリーセックスとは縁遠い日本の男だって、アンディが相手ならば理性が飛ぶ者もいるかもしれない。
だからといって彼は決して女っぽいという訳ではなかった。バランスの整った美しい筋肉。無駄なものは何もない。優雅に眠るその様子は、数日前、目にしたコマーシャルに映っていたピューマを連想させる。ほんの一瞬。ちょっとよそ見をして、視線を戻すと彼の青い瞳とぶつかった。びっくりした。なんの気配も感じなかったから。太陽の光で色を放つその瞳は片目だけ少しグリーンがかって見えた。
しばらく視線を絡めた後、ゆっくりとアンディは微笑んだ。そして日本語でオハヨウと言った。瞳に溺れるって、彼のためにある台詞だわ。そう思わずにいられない。男だって女だって、こんな風に見つめられたら、息つぎさえ忘れてしまいそうだ。
「ねむれた?つかれているみたいだったから‥」
「あっ」
お化粧も落とさないで寝てしまった。ひどい顔をしてるに違いない。慌てて立ち上がった。
「シャッ…シャワー浴びてくる」
バタバタとバスルームのドアに手を掛けてあたしは忘れ物に気付いた。踵を返して再びベットに向かう。不思議そうにアンディはこちらを見た。遅刻しておずおずと挨拶をする小学生のようにあたしは言った。
「…おはよう、アンディ」
島での生活が始まった。小さな島の名はエリヤドゥ。一周十分程度の絵に描いたような南の島。あたし達のコテージの前には海に溶け込む美しい砂洲が広がっている。折れ曲りながら長くつながった桟橋が色の濃いリーフの切れ目まで伸びていた。全て海に面しているビーチコテージ。半野外のシャワーの屋根からは突き抜けるような青い空が覗いている。ぐるりと島の外を見渡しても、遠くにポツンと島らしきものが海の向こうに見えるだけ。どこまでも続く水平線は地球が丸いことすら証明する事ができる。
初日はゆっくり過ごしてダイビングは明日からという事になった。アンディとあたしは波打ち際に座ってのんびりと海を眺めた。プールではないかと思うほど透明な海に、半身浴のように体を沈める。
ふたりの隙間をからかうように白い魚が繰り返し通り抜けていった。手を差し伸ばすと躊躇しながらもその指先を突っついてくる。その人懐こさに驚かされる。新しいゲストに挨拶に来ているみたいだ。
目配せをしながらその微笑ましい様子を眺め、自然と二人で笑い合っていた。ゆっくりと目を閉じて海の香りを吸い込んでみる。媚薬のような南国の空気がじわじわと体に染み込んでくるのを感じる。
決してゴージャスとはいえない島のコテージや施設。だけど素朴だからこそ気負う事のない心地よさがあった。あるがままに身を任せる至福の時間が、この島の時を刻んでいるようだ。
気負わない…
そう、不思議な事に目の前のアンディにもこれと似た感覚を感じていた。彼は素朴とは言い難かったけれど。アンディの恋愛対象にはなりえないという事。それは意外にも気分を軽くした。恋の駆け引きなんて必要ない関係。それは女としての自分を必要以上に飾りたてたり、背伸びをしなくていいのだ。期待に胸を躍らせて、挙げ句の果てに落胆するなんてみじめな心配をする事もない。
時々言葉が通じないなんて事もあったが、子供に話すような易しい単語で言い換えれば、二人の日本語の会話も不自由はなかった。それにアンディはさすがジェントルマンの国の男だけあって、女の扱いも溜め息を付くほどスマートだった。この場所でアンディの隣にいるのはこの上なく心地が良く、あたしはすっかり寛ぎはじめていた。
「同じ色ね」
様々なブルーのグラデーション。エメラルドグリーンさえ織り混ぜたエリヤドゥの海とアンディの瞳を見比べてみる。
「皆、その綺麗な瞳に溺れちゃうわね」
「オボれる?」
ちょっと難しかったかな?アンディは解らないよと肩をすくめてみせた。あたしは人指し指で、アンディの瞳から自分の胸を撃ち抜くジェスチャーをしてみせた。意味は伝わったのだろう。彼は照れた仕草ではにかんだ。
「だけどボク、コイビトにサヨナラいわれたよ」
思わぬ台詞に驚いてすぐに言葉がでなかった。
「イッショにココにくるヤクソクした。だけど…」
そうか。本当は恋人と来るはずだったのか。
「ボクもクミもセンチメンタルジャーニーだね」
そう言って海を見詰めるアンディの瞳は悲しげに曇って見えた。
「アンディ、命短し恋せよ乙女でしょ?」
「あぁ、それ…」
でもさ、と少し拗ねるような仕草で彼は言葉を続ける。
「オトメってオンナノコだけのことでしょ?」
「…ハンサムな男も乙女のグループよ」
「ホントに?」
ちょっと嬉しそうにアンディがあたしを覗き込んでくる。細かい事は良しとしよう。間違った解釈を教えるなとおネェに怒られるかもしれないけど。
「だけどこんな難しい日本語よく知ってるわね?」
「ニホンゴのケンキュウしているHPがあってね。イミ、イングリッシュでかいてあったから」
「恋せよ乙女かぁ…」
次の恋なんてどこに転がっているというのだろう。