『だからやり直そ? 俺達…』
部屋の留守電には、見知らぬ男からの切ないメッセージ。
自由が丘のBARで待っていると、その言葉は途切れた。
込み上げてくる笑いをあたしは堪える事が出来ない。
こんな間違い電話をして、待ちぼうけしている男の姿を肴に、一杯飲みにでも行こうか?
【小説紹介文】
別れ話 電話 モルディブ バタラ 小説 無料
テレフォン
『俺、待っているから、自由が丘のジガーバーで。見せてやるって約束しただろ? モルディブの海。行こうよ、だからやり直そ? 俺達……エリコ……』
テレフォン (バタラ)
部屋に帰ると留守電の存在を伝える点滅ランプが、暗闇の中でチカチカと光を放っていた。家の電話に留守電なんて珍しい。そう思いながら再生ボタンを押したのだ。
エリコ……と名前を呼んだところで、そのメッセージは途切れていた。
あたしは煙草に火を付けて、深呼吸のように深く吸い込む。
薄暗い部屋にゆっくりと細い紫煙が立ち登るのを眺めながら、込み上げてくる笑いを堪えることが出来なかった。
この電話の持ち主はエリコじゃないってば。
確かに留守電の応答メッセージは、こちらの苗字なんて名乗らない、元々電話に登録されていたそっけないものだった。だけどこんな伝言を間違えて入れてしまう間抜けな男なんているのだと、呆れを通り越して笑ってしまう。
しかもたった今、男と別れて帰ってきた女の部屋に……。
留守電は十五分程前のものだった。今は九時四十五分。自由が丘のジガーバー、近場じゃない。金曜の夜だ。こんな間違い電話で待ちぼうけしている男の姿を肴に、一杯飲みにでも行こうか?
結局一度も明かりをつけないまま、再びドアノブに手を掛けた。
『行こうよ、モルディブ』
誘うような声色が頭をよぎった。その単語が含まれていた事も、あたしには特別な偶然だった。
祐天寺の駅から東横線に乗っても三駅の距離だったが、電車に揺られる気分にはならなかったのでタクシーを捕まえた。ジガーバーは自由が丘の駅のすぐ脇にある。地下に降りていく扉を開けると、ヒールの音を響かせて狭い階段を降りて行った。
金曜だからだろうか、店は結構混んでいる。カウンター席に腰を下ろしてジンを頼むと、興味深く店の中を見渡した。すぐにわかる、そう思った。皆ワイワイと賑やかに楽しそうだ。独りの客は三人ほどいた。
……ほらね。
壁際の席にぼんやりと座る電話の主を、あたしは見つけたのだ。
馬鹿な男。いつまで待っても無駄なのにね。ついさっきまで一緒だった雅也の言葉を思い出す。
『もうやめよう。俺達、駄目だよ』
唐突だったが、予感はあった。あたしは身じろぎもせず、真っすぐに彼を見詰めた。
『別れ話? いいわよ。だけど、何が気に入らないのかしら?』
彼は少し沈黙して言葉を繋げた。
『……こんな時にも動揺しない君の冷静さ』
ジンの海に浮かぶ氷山のような氷の塊を、あたしはお行儀悪く人差し指でくるくると掻き回す。
いつも落ち着いている君が好きだな、なんて言っていたのにね。
馬っ鹿みたい男なんて……。壁際の席の見知らぬ男に視線を移しながら、八つ当たりのように心の中で悪態をつく。無い物ねだりばっかりして、アンタ愛想つかされたんでしょ? 待ちぼうけがお似合いだわ。
その男は、いつまでもそこにいた。タバコを時々咥えながら、ぼんやりとした眼差しで。そんな風にどんな人を待っているの? 諦めればいいのに、どうして待っているの?二杯目のジンのグラスを飲み干して、酔いが回ってきたのだろうか。あたしは立ち上がると、その男の席に向かった。
「ごめんなさい。遅れて」
グラスを眺めていた彼の視線が、ゆっくりと動く。
「……なあんて、ね。待ちぼうけ?」
彼は不思議そうな顔をして、あたしを見詰めている。
「あたしね、友達にすっぽかされちゃったの。もし良かったら一杯付き合ってくれないかしら?」
彼は、ナンパのような事をしているあたしに動じる様子も無く「いいよ」と、さらりと言った。
「彼女が来るんじゃないの?」
意地が悪かったかもしれない。けれど、素知らぬ振りでそう聞いてみる。
「残念ながら独り」
あれ、この人じゃないのかな? ちょっとだけ一瞬不安になった。だけどこの声色は、確かにあの留守電の主と同じ、響くハスキーボイスだったのだ。
「ここはもう飽きたから良かったら場所を変えない?」
「近場ならいいわよ」
「いい店があるんだ」
自由が丘の駅から桜並木を抜けて、住宅街の一角にひっそりと佇む隠れ家のようなバーに場所を移した。さっきより薄暗い、地下への階段を連なって降りていく。重厚な扉を開けると、そこは幻想的な空間だった。
ブルーにライトアップされた巨大なドーナツ型の水槽が、カウンター沿いに設置されている。
「水族館かと思った」
彼はあたしの言葉に満足して微笑んだ。
「魚が好きなの?」
「ダイビングやるからね」
改めて、彼の様子をまじまじと伺う。二十代半ば? 多分年下だろう。
綺麗な男の子だった。色素の薄いさらさらの髪。長髪とまではいかない、中途半端な髪のルーズさが良く似合っている。男っぽいというよりは中性的な顔立ち。だけど、鍛えられ整った筋肉と、綺麗に色付いた日焼けが、彼の容姿よりも男らしさを引き立てていた。彼が席まで歩いていく様子を、女の子達がちらちらと盗み見る程に、人目を引く魅力があった。
「ナンパみたいな事して、変な女だと思ったでしょう?」
「いえいえ、綺麗なお姉さん、大歓迎。それに今日は誰かと話したい気分だし」
「彼女とケンカでもしちゃったのかな?」
「……っていうか、フラれた」
「あら、似合わない台詞ね?」
「しつこくして、余計に嫌われちゃったよ」
「追いかけられると、逃げたくなるのよ」
まいったなって、彼は笑ってみせた。そんな話をしているところに、注文したグラスが届いた。
「何に乾杯しようか?」
「お互い、なくした恋に」
「お互いに?」
「あたしも今日、彼に振られちゃったのよ」
「……話、合わせてくれてるんだ? 優しいんだね」
彼は本気に、あたしの話をとらえなかった。
「じゃ、なくした恋に……」
グラスを合わせると、中の氷がカラカラと綺麗な音を立てた。
「ダイバーなの?」
「うん、水の中好きなんだ」
「ダイビングどこに行くの?」
「うーん、普段は伊豆とか沖縄とか、海外もたまにだけど行くよ」
「南の島とか?」
「うん」
「モルディブも?」
彼はちょっと驚いて、あたしを見詰めた。
「ハワイだグァムだって言葉は出ても、モルディブって行った人じゃなきゃ出ない単語だよね?」
「ダイビングはやらないけどね」
「モルディブの、どの島に行ったの?」
彼は興味深そうに、あたしに問いかけた。
「バタラ」
「いいね、行ってみたい島のひとつだよ」
目の前の水槽は、細かい泡がぱらぱらと溢れていて、ブルーのライトを吸い込みながら、青い光を反射させていた。その光の隙間を、黄色いチョウチョウオが二匹連なって横切っていく。
一年前、魚影の濃いバタラのハウスリーフで、同じ様子で仲良く連なって泳ぐ黄色いチョウチョウオを、雅也と見詰めていた。何という蒼さだろう。想像を絶するバタラを取り囲む自然の色彩の鮮やかさを、昨日の事のように思い出す。
『チョウチョウオっていつも仲良くカップルでいると思わない?』
『夫婦なんじゃないか?』
『魚でも、そういうのあるのかな?』
他愛もない話。だけど、そんな会話が、あたしを幸せにしていた。こんな場所に雅也と一緒にいる。それだけで満たされていたから。
あまりにも魚が沢山いて、手ですくい上げられそうな程だった。泳ぐのが苦手なあたしを、彼はいつもリードしてスノーケルをしてくれた。初めて目にする、ドロップオフの迫力に足がすくんだけれど、あたしを引いてくれる彼の力強さに安心して、その深海を思わせる光が届かない暗い海への境を、慣れないフィンを蹴り上げながら彼の後に続いて泳いだのだ。
繋がれた指先が熱かった。あおいゼリーの海に溶け合うように泳いだ。泳ぎ疲れれば、小さな藁葺きの質素なコテージで抱き合って眠った。
それだけの日々。だけど、極上の休息。
グラスの氷をカラカラと弄びながら、男は楽しそうに話し出した。バタラの残像に心を移していたあたしは、はっと現実に引き戻され、そして、名前も知らない男の言葉に耳を傾ける。
「俺はさ、モルディブはダイビングサファリに行ったんだ」
「ダイビングサファリ?」
「船に泊まって色々なダイビングポイントを巡るんだ」
「船にずっと泊まるの?」
「うん、リゾートには泊まらなかった」
「どこかの島には降りなかったの?」
「途中の無人島で、バーベキューなんかをやったりしたけどね」
「マンタとか見た?」
「見たなんてレベルじゃないよ、三十枚くらい見たよ。ハンマーヘッドや6mくらいのジンベイも」
「すごい……」
「でもね、夢中でダイビングしていたけど、今度は島のリゾートも楽しんでみたいなとも思うんだよね」
「そうね、きっとまた違ったモルディブの良さがあると思うわ。何もしない贅沢って素敵よ」
「でしょ? でも島のリゾート行くならやっぱりカップルで行きたい所だよね」
あたしは曖昧に笑ってみせた。
「バタラ……彼と行ったんでしょ?」
その彼の問いかけに胸の奥がズキンと痛んだ。あたしは今日何を失ったのだろう?
あの鮮やかなブルーの空。深い藍色にグラデーションしていく眩しい海。日焼けした肌を引き立てるホワイトサンド。そして、隠れ家のような小さな藁葺きのコテージ……。
バタラでの日々の何もかも、どこかに置き忘れてしまった気がして、途方に暮れてしまった。目の前の彼が驚いた顔で、あたしをおずおずと覗き込んできた。
「ごめん……俺、余分な事聞いちゃった?」
信じられない。あたし、泣いている? 瞼が熱くて、それを癒すようにあたしの瞳は濡れていた。涙がつたった頬を隠すように両手で頬杖をついて、彼の視線を避けるように水槽を見詰める。小さなエイが、優雅に目の前を横切っていった。
「さっきの話、本当だったんだ。今日別れてきたって」
「……うん」
視線を合わせないで頷いた。
「まだ、好きなんだね? 彼の事」
その言葉に弾かれたように顔をあげて、男の瞳を見詰めた。そして息を深く吸い込むと、懺悔のように告白した。
「ううん。好きじゃないの」
「じゃあ、どうしてそんなに悲しんでいるの?」
「……あんなに愛していたのに、もう愛していない事が哀しいの」
その事実を溜息と一緒に吐き出してしまえば、少し気持ちが軽くなった。不覚にも他人の目の前で涙なんて見せてしまった自分を、責めずにいたわってあげたい気持ちさえ湧いてきた。
そう、雅也を愛していた。あの海よりも深く。あの陽ざしよりも熱く。全てを赤く塗り替えていく、美しい夕日を寄り添い眺めながら、また来年も来ようよと約束をした。指きりなんてしなかったけれど、彼は絡めあった指先を強くたぐり寄せてあたしに口付けをした。
夢みたいな日々だった。けれど現実だった。今度はどこの島に行こうか?そう思うと、あの日々の二人を思い出し、体が熱くなった。
だけど、だけど。
いつからだろう、それが辛さに変わったのは。あの日々を思い出せばそうする程に、変わってしまった二人に絶望した。何かが狂ってしまったのだ。好きだから許せていた何もかもが、あたしを苛立たせる全てになってしまった。
あんなに愛したのに、飽きてしまった自分が許せなかった。人づてに耳にした彼の浮気話さえ、あたしの心を乱すことはなかった。けれども、別れても不思議じゃない程に終わっていたにも関わらず、あの島に戻ればやり直せる気がしていた。
日常のしがらみの全てを脱ぎ捨て、あの島々に抱かれれば、彼を愛していた自分を取り戻せるような錯覚が、あたしを縛り付けていた。彼を愛していたのか、彼と過ごしたモルディブの日々に執着していたのか、自分でも、よくわからなくなっていた。だけど、切り札は彼から出した。やっと今日、あたしは楽になれたのだ。
水槽のブルーのライトに照らし出されて、隣に座る男の横顔がぼんやりと薄暗い空間に浮き出されている。
「羨ましいな」
そんな言葉がその整った唇からポツリと漏れた。きっとあたしは不思議そうな顔をしていると思う。恋人に振られてどん底のあたしに、羨ましいなんて言葉が似合うはずもないではないか。
「愛しているなんて過去、俺には無いからさ」
「別れた彼女は?」
あんな風にいつまでも待っていたじゃない。
「俺、初めて女に振られちゃったんだよね、どっちかっていうと、その事に納得できなくて追いかけた感じなんだ」
彼は少し寂しそうな顔であたしを見詰めた。
「本気って羨ましいよ……きっと俺、それを知らない」
あたしの涙はもう乾いていた。彼の話を不思議な気持ちで聞いていた。羨むような彼の眼差しに、終わってしまったあたしの恋が、少しだけ輝いて見えた。さっきまで、足元に転がっている石ころ程の価値さえも、なくなってしまった気がしていたのに。
「もう一杯飲んだら帰ろうか?」
「うん」
「今夜はよく眠りなよ」
優しい人だった。彼が何故、本気に巡り合えないのか不思議だと思った。グラスが運ばれてくる。
「南の島に乾杯しよう」
あたしは頷いた。あの環礁に、あの楽園に乾杯しよう。そのグラスに口をつけて、彼はクスリと思い出したように笑った。
「俺達、名前も言い合ってないね。たまにはこんなのもいいかな?」
「今夜、あなたに会えてあたし,救われた気がする」
「俺も……」
「あなたに謝らなきゃいけないことがあるの」
彼はきょとんとした顔をした。
「留守電、あたしの部屋に届いてた。ゴメンね、言いそびれちゃって」
「え? 留守電って……あの……」
「あの声、あなたでしょ?」
うわ~って彼は頭を抱えた。
「すげぇ格好悪い。俺って……」
俯いてしまったので、髪が彼の表情を隠してしまっている。だけどその隙間から、忙しそうにぱちぱちと瞬きをする睫毛が見えた。
「間違い電話だろうなって俺、わかっていたんだ。……彼女の部屋の電話なんて携帯に登録していなかったし、うろ覚えの番号に掛けたんだ」
慌てる彼が可笑しくて、笑いそうになったけれど、あたしは神妙な面持ちで真面目に聞いている振りをした。
「あんな事、言ってみたかっただけ。彼女にはあの後メールで誘ってお断りされた。そっけなくさ」
少しの沈黙の後、彼はハッとしたように顔を上げた。
「もしかして、留守電の事、知らせる為に来てくれたの?」
「飲みたい気分だったから出掛けただけよ」
「……優しいんだね」
あたしは、その言葉に我慢できずに吹き出してしまった。
「ううん。あたし、すっごい意地悪よ?」
今度は彼が笑い出した。向こうの席の女の子が様子を伺うくらい、大きな声で可笑しそうに笑った。
「君って面白い人だね」
店を出て、タクシーを拾える駅のロータリーまで並んで歩いた。
「俺の携帯の履歴にある間違い電話の番号って、君の部屋につながるって事だよね?」
「そうね」
「今度電話したらずうずうしいかな?」
控えめな彼の誘い方が好ましかった。
「今度は番号間違えないようにね。また違う女が来ちゃうかもよ?」
「まいったな、勘弁してよ」
「そうね、今度は6mのジンベイザメの話を詳しくしてくれる?」
もちろんって、彼は夜空を見上げた。その心に一瞬、あの蒼い海が横切ったのがわかる。色素の薄い彼の瞳が、月明かりで青く輝いた錯覚さえしたのだ。
「ありがとう」って別れの挨拶をした。最後まで、名前は教え合わなかった。哀しい夜に偶然が呼んだ出会い。
酔いが回って心地よく重くなった体を、タクシーのシートに沈め、そっと目を閉じた。よく眠れそうだ。
あの日々をずっと忘れた振りをしていた。想い出はあたしを憂鬱にしていたから。けれど、今はやっとその呪縛から解き放れた気がする。今夜は、あの海の夢を見られるかもしれない。そう思った。
その夢は何もかもをブルーの霧で包み込み、癒すようにゆっくりと深い眠りに沈めてくれるはずだ。そして朝が来れば、もっともっと、あの島々に心を奪われたあたしが目を覚ますことだろう。
[ END ]
バタラ/写真(別窓)
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