バシャッ
震える足で一歩踏み出す。
バシャンッ
数歩進んだところで、足がもつれて海に倒れこんだ。水の深さは腰くらいだろうか。
サブンッ
あたしは泳ぎ始めた。あの、境界線に向かって。
パパの遺体は見つからなかった。深い深い海に沈んで、泡になってしまったのだ。
ねぇ、置いて行かないで。もう、取り残されるのは嫌なの。
センセイ…
お願いだからあたしも連れていって。終わりのない水底に…あなたとならどこまで堕ちても構わない。
ほんのわずかな時間だったと思う。塩水なのに、不思議とそんなに目に染みてはこなかった。サブサブと、息をつくのも忘れ、気が付けばあたしはドロップオフまで泳ぎ着いていた。
浅瀬から突然、深い海底に向かって続く奈落。海の中に崖がそびえたっているようだ。一歩そこに足を踏み入れると、空に浮いている錯覚さえする。遠目に見ると濃い藍色の海が、その場に来てみれば光が届く限り澄み渡っていた。
モーターボートを探す。少し沖にそれはあって、ハッサンが抱えたパラセイルを船にいるモルディブマンに渡そうと、海から押し上げているところだった。
赤い…赤い…真っ赤なパラセイル…
放心するあたしの背後から突然声が響いた。
「驚いたな」
振り向くとセンセイがぽっかりと浮かんでいた。
「一人で泳いで来れたの?すごいよ」
「…だって、センセイが落ちたから…」
「あぁ、すごい風だったな。頭の上から落ちてきたパラセイルをかぶってもみくちゃだったよ」
「…馬鹿っ。浅瀬に落ちたのかと…あた…し…」
最後の方は涙が溢れて言葉にならなかった。急に泣き出したあたしに、センセイは目を丸くしている。
「ごめんね。俺の為にに泳いできたの?」
センセイの手が伸びてきて、あたしの頬に触れた。
「ここ深いから、怖かっただろう?」
添えられた温もりにあたしも手を重ねた。こんな水の中でも、センセイはあたしを温めてくれる。
怖かったよ…。何度も頷いてあたしは訴えた。センセイが消えてしまったら…そう思うと、押し潰されそうなほど怖かった。次々と溢れる涙は、海に溶けていく。
「センセイ…ちゃんと泳げたから…ご褒美頂戴」
離したくない、この温もりを…
「ね…お嫁さんにして」
馬鹿だ。あたしは…センセイは結婚しているのに。喉元から滑り落ちた言葉に、自分自身息を呑む。だけど、もう止められない。
「お嫁さんにしてよ」
ここにいる間だけでもいいから…困った顔をされると思っていた。だけどセンセイはあたしの身体を引き寄せると唇を重ねてきた。
あの書物部屋で、最後センセイの寄せた唇はあたしに届かなかった。だけどやっと今、あたしはこの境界線を踏み越えて、彼から太陽の香りのする接吻を受ける
「いいよ」
…戯れから出る言葉でも嬉しかった。センセイの背中に腕をまわすと、泳いでいた足が止まり二人で海の中に沈んでいった。息が続く限り、口づけを繰り返す。
罪深い恋だとしてもよかった。もう、あたしは恐れるものなんてないのだ。
ザバッと二人で海面に顔を出すと、センセイが水着に巻きつけていたゴーグルを差し出してきた。言われるがままに装着して、海の中を覗き込む。
…これは、あたしが今浮かんでいる場所は一体何処だというのだろう?
ドロップオフの境から湧き出した魚が、一面に溢れている。浅瀬でもよく目にするブルーの鮮やかな魚が、大群をなしてすぐ脇を悠然と回遊していた。
赤、黄色、紫、オレンジ…海の中に降り注ぐ魚のスコール。
体に触れてこないのが不思議なくらいだ。押し分けるように前に進まないと、その先の景色すら隙間から覗けるだけだなんて。群れのカーテンの先からは、マントをひるがえしたエイの親子が忽然と姿を現した。飛んでいる。あおい空を…いや、ここはまるで宇宙だ。
あたしにとって、海は命を奪うイメージだった。だけど、今あたしを包む込む海は、地球が抱く命を、産み落とし育む源なのだと教えてくれる。ここから生まれた。この感覚は何なのだろうか…
抱き締められているようだ。大きな大きな果てしない水の抱擁は、胎児の記憶さえ呼び戻す。
もう、海の泡はあたしを溶かさない。皮膚を優しく悪戯にくすぐるだけだ。
海から抜け出し、センセイに手を引かれ二人のコテージに忍び込む。
“お嫁さんにして…”
まるで、おままごとの約束のような台詞ではないか。自分の放った子供っぽいおねだりに、今更に顔が熱くなる。
“いいよ”
あたし、知ってるの。あの写真集の後ろのページにモルディブの文化が羅列されていた。この国では一夫多妻制が許されている。日本人のあたし達には何の効力もない事かもしれない。だけど、この島々で過ごすだ間だけでの関係ならば、太陽の神様は祝福してくれるはずだ。
現地妻。
一瞬、頭に思い浮かんだ単語に笑いを噛み締める。あたし達の関係に、意味、合ってるのかしら?多分、合ってない。だけどイメージはそれだ。
何度でも訪れればいい。その度に違う島を巡ろう。彼と過ごす1年に数回の1週間のバカンスを、繰り返し生きていけばいい。
シャワーを浴びたら、彼をベットに押し倒すつもりだった。夜を待ってなんて…もう、いい子になんてしていられそうにもない。あのキスにあたしの理性は吹き飛んでいた。だけど、センセイは冷静に、時間割を発表したのだ。
「今日はお楽しみがあるって言ったの覚えてる?着がえて支度をしたら、桟橋でドーニが待っているよ」
ドーニ…。あの船で一体何処に行こうというのだろう。
もうすぐサンセットが始まる。ナイトフィッシングのツアーにでも参加するつもりなのだろうか?
夕暮れが迫る海の上を、ドーニは進む。スタッフ以外、ゲストはあたし達だけだ。まるで貸切…
一体何処に行くというのだろう?センセイは着いたら分かるよってあたしの肩を抱いた。
30分程でドーニは止まった。目の前に島には桟橋がない。そこから更に小さな船に乗り換え、浅瀬を漕いで島に上陸する。島は人影が全くなかった。驚くほど、きめの細かいパウダーサンド。
「ココパームが所有している無人島なんだって。今日はここで夕食だ」
無人島?
信じられない…。本当に小さなヴァージンアイランド。
日除けの為の藁葺きの傘のような東屋(あずまや)が、ひとつだけぽつりと建てられていた。2人のスタッフがあたし達だけの為に夕食の準備をしてくれる。
ワインレッドに染まっていく空と海を、2人だけのビーチで眺めるひと時。こんな贅沢があるのだろうか?センセイは繰り返しあたしにキスを落す。
昨日より少し大胆になった二人。明日は?もっと情熱的なサンセットを眺めるに違いない。
用意された砂浜のテーブルは可愛らしく葉っぱやお花でデコレーションされていた。そのテーブルを優しく照らし出す砂に立てられたキャンドル。どんな高級なレストランに繰り出したとしても、ここまで女心をくすぐるディナーに巡り合う事はないだろう。
バーベキュされていく食材は、どれも美味しく、籠に盛られたフルーツに手を伸ばす。何処までも控えめに、波音のBGMがロマンティックなひと時を奏で続ける。果実に濡れた手を、センセイが波打ち際に洗いに行った。
あたしはそっと、2人のギャルソンにお礼を言った。
「シュークリア(ありがとう)」
2人は嬉しそうに、微笑を返してくれる。あたしは朝食の席での出来事を思い出し、彼らにそっと尋ねた。
『ロビベ』ってどういう意味かしら?
センセイが教えてくれなかった秘密の単語。2人は顔を見合わせて、照れたようにはにかんだ。そして一人が胸に手を当てると、そっと口にした。
「LOVE」
もう一人が冷やかしたように肘で相方を突っつく。浜辺で口づけを交わすあたし達を、見慣れたものだと手際よく夕食の準備にいそしんでいた彼らが『ロビベ』という愛の言葉に大袈裟なほどに恥ずかしがる。少年のようなあどけなさを残す南の島の若者は、その言葉を自ら口にした事がまだないのかしれない。
LOVE…
センセイは意地悪だ。こんな愛の告白を、あたしの知らない言語で囁くなんて。
“ロビベ”
だけど、不思議なほどにその響きは、やはりこの島に相応しい。
スタッフに渡された懐中電灯を持って、島の反対側まで探検に出かけた。
「センセイ、海に星が映っている」
きらきらと海面を漂う星屑の光。
「プランクトンが光っているんだ」
手のひらですくうと、水はぱらぱらと零れて消えた。けれども、指の先でその光は砂金のように小さく輝く。今、裸でこの海に浸かったら、贅沢にこの光が肌を飾り立ててくれるのだろう。そんな思いつきに顔が熱くなる。
もしかしてあたし欲情してる?だけど、ふしだらだなんて思わなかった。15歳のあのときからずっと、先生が欲しかったのだから。この島の素晴らしさに後ろ髪を引かれながらも、はやく島に戻ってセンセイとあのコテージに閉じこもりたいと思った。
そして、耳元で何度も囁くのだ。
ロビベ…ロビベ…
南の島の結婚初夜に相応しい愛の囁きを、繰り返し彼に注ぎ込もう。
テーブルがあった場所に戻ると、誰もいなかった。キャンドルだけが、儚い炎を風に揺らしている。テーブルもあの2人のスタッフも跡形もない。
「誰もいないよ。明日、朝食を持って迎えに来てくれる」
「え?」
「本当にこの島に2人きりって事だ」
にわかには信じがたい状況だった。この無人島に2人だけ?そんな事ってありえるのだろか?一瞬、遭難したような気分にさせられる。だけど次の瞬間、それは高揚した気分に変わった。
すごい。まるで映画のようだ。
「ねぇ、ねぇ、何処で眠る?砂浜のベットなんて素敵じゃない」
喋っているうちにどんどんテンションが上がる。
「あ、でもスコールがきたら濡れるから、東屋の屋根の下がいいかしら?」
その時だった。カチって音を立てて、センセイが懐中電灯の光を落とした。かがみこんで足元のロウソクも吹き消した。消えた灯りが暗闇を生み出す。
一生の中で人は、これほどの暗闇に巡りあう事があるのだろうか。そしてその闇に浮かぶ満天の夜空。人工の光がひとつも邪魔をしない…屋外でそんな状況は不可能に近い。だけど、あたしはそれを目にしている。
普段星が輝いていると思うことはあっても、こんな風に星明りに照らされているなんて感じることは一度もなかった。人は知恵の恩恵にあずかって贅沢に生きる事を学んだ。だけど、その為に失ったものを今、あたしは知ったのだ。
願い事を繰り返せるように流れ星が何度も夜空を横切る。埋め尽くされるほどに宇宙には星が溢れていた。色さえも伺えるその輝き。
「律子」
砂浜に座り込んでセンセイの肩におでこを寄せながら、「なぁに?」と応える。
「俺、あの時君から逃げ出した…」
再会してから今まで、あたし達は決してその事に触れなかった。だけど、そう切り出したセンセイに素直に耳を傾ける。
「白木先生は偶然隣町の出身でさ。それを知ったことがきっかけで親しくなったんだ。俺の仙台の実家、商売もしてるから彼女ウチを知っていた。あの日、彼女は全てを俺の親に話したんだ。その電話に驚いて…その日のうちに25歳にもなる息子を…親が連れ戻しに来た…犯罪者になる前にってさ」
あたしは黙って髪に触れる彼の息遣いを感じてた。
「監禁されたわけじゃない。逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出すこともできた…何を言っても言い訳に過ぎない」
あ、ほらまた星が流れていった。あたしはぼんやりとそれを視線で追いかけた。
「君の全てが、愛しくて、怖かった…」
そう告白する先生の声は少し震えていた。
「小説を書くことでずっと誤魔化してきた。運良く最初の投稿で新人賞を取って仕事も手に入れ、ただひたすらに没頭した」
君を忘れる為に…溜息のようにセンセイはそう呟いた。
「2年過ぎる頃には東京に戻ってきた。あの学校からは離れた場所に部屋を借りて…白木先生と結婚したんだ」
あたしはセンセイの腕に指を絡めると、甘えるように寄り添った。そう、と小さく相槌を打つ。
「律子…いい加減な男だって呆れられても仕方がない。コレが自分に似合った人生なんだって、そう思いこもうと努力した。本も出した。名前も売れてきた。俺を愛して世話をしてくれる妻もいる…だけど、君がいないくて…満たされたことなんてなかった」
「センセイ、いいのよあたし。現地妻で」
「え?」
「ふふっ。何だか怪しい響きよね」
「白木先生と結婚していても構わない。あたし、これから何度もモルディブにセンセイを訪ねるわ。その時だけ貴方はあたしだけのもの。約束したでしょ?お嫁さんにしてくれるって…だから現地妻…あ、もっと相応しくここに引っ越してきてもいいわ。あたし翻訳の仕事をしているのよ。センセイの本を翻訳して世界のベストセラー作家にしてみせるわ」
現地妻…先生はそう呟くと、可笑しそうに笑い出した。
「君は変わらないな…」
砂浜に押し倒される。柔らかい砂が、あたし達の身体をなぞり、優しくその形をくぼませて、世界で一番大きなシーツを広げる。
「君の全部、俺に頂戴」
「あげるわよ」
「心も身体も人生も…」
「欲張りなのね」
「全部欲しい」
「あげるって言ったじゃない」
「俺のお嫁さんになってくれるの?」
「うん、この国って一夫多妻制なんでしょ?押しかけ女房よ」
センセイの押し殺した笑い声が、キスの雨に混じってあたしの耳を優しく齧る。
「…俺、独身だよ」
「えっ?」
「彼女とは結局…2年もたなかったんだ」
思いもしない告白に、頭が混乱する。
「君があの本に気付いてくれるなんて…思ってもみなかった…」
馬鹿ね。ベストセラー作家の癖に。でもそんな台詞が…あなたらしい…
センセイは懐中電灯をつけると、足元を照らしながら歩き出した。島の真中に生い茂る木々の小道にあたしを招き入れる。気が付かなかった…隠されたようにぽつりと1棟だけ、そこにコテージがあった。
扉を開くと、天蓋のついたベットがあって、シーツが島の花びらで可愛らしく飾り立てられていた。部屋にはキャンドルが灯されていて、この部屋をささやかに照らし出している。センセイはベットにあたしを腰掛けさせると、跪いてあたしの膝に顔を埋めた。
「ずっと一人にして…許して欲しい」
「一人じゃなかったわ」
あたしは少し意地悪な気分でセンセイに口答えする。独身だなんて…早く言ってよ。現地妻なんて台詞…馬鹿みたいじゃない。だから、拗ねてみせる。
「ねぇ、センセイ当たり前のことを言うようだけど、あたしバージンなんかじゃないわよ」
センセイはちょっと驚いた顔をして、切なそうに顔をゆがめた。
あたし、馬鹿だ。素直に甘えて抱かれればいいのに…25歳の女が男を知らない訳がないではないか。わざわざそんな事を口にして、彼の心に爪を立ててどうしようというのだろう。
だけど、センセイはやっぱりあたしなんかよりずっと大人だ。強がってみせているあたしを、こんな台詞で揺り動かす。
「自惚れでも君に男を教えたのは、俺だって自負してる」
唇を貪るように盗まれる。息が出来ないほどに…まるでお仕置きだ。いい子にしなかったから…
シーツに飾りつけられた花びらを跳ね上げながらベッドに倒れ込む。
「センセ…ちょっ…と待って」
キスの激しさに、息が続かない。
「駄目」
耳元で囁かれる。
唇が解放されたというのに、耳に吹きかけられた息遣いに呼吸を忘れる。
「止まらない。覚悟して」
あたしは固く目を閉じた。激しさに巻き込まれると、誰もがそうせざる得ないように。
いつだってセンセイは…その先に進もうとするあたしをそっと引き留めていた。触れられる手は壊れ物を扱うように慎重で…
だけど初めて剥き出しになった彼の熱情に触れて、あたしは自分の罪深さを改めて思い知る。
優しい微笑みの裏で、ずっとこの激流をせき止める為に、歯を食いしばっていたに違いない。彼に絡みついていた足かせは、なんと重かったのだろう。
だからせめて今は…全てを彼に委ねよう。
誰もいない二人きりの島。満天の星空に照らされた小さなコテージで夜が明けるまで抱き合えばいい。
もう、何も考えられないよ…心も、身体も、麻薬のように甘い快楽に溶けていく。センセイにしがみつきながら、何度も何度も繰り返す。
南国の夜にふさわしい愛の言葉を
ロビベ…
ロビベ…
今、夜空を横切る流れ星に、この想いは届いただろうか。
“ずっとずっと、貴方のものでいたい…”
随分朝寝坊をした気がする。隣に触れる温もりを感じながら、満たされた気分で目が覚める。開けっ放しの窓から、柔らかな太陽の光が差し込んでいた。
あ、センセイが眠っている。初めて目にする無防備な寝顔。前髪に絡んだ花びらを、そっと摘みあげてあげると、眉間に一瞬皺を寄せて、再びすやすやと寝息をたてる。
ベットの脇に落ちていたスリップドレスを羽織って、部屋の隅に置かれた鏡台を覗き込んだ。やだ…髪がボサボサだ。鏡の前に置かれたブラシで髪を整える。センセイが目を覚ました時に、綺麗な自分を見て欲しかった。
あ…
コトリと小さな音を立ててブラシを置いた時、あの短歌が頭をよぎった。
“みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす” (みだれ髪を綺麗に結い直して、朝寝しているあなたを揺り起こす)
愛しい人の前で、女心というのは時代を隔てず変わらないものだ。
センセイが眠るベッドに足音を忍ばせて近づく。
そっと…そっと…。
巻きつけたシーツから覗く素肌の肩。そこに手を伸ばすこの瞬間を、あたしは一生忘れないだろう。
愛しい人を揺り起こそう。
新しい一日が始まる。
楽園のバカンスが、今日もあたし達を待っている。
【END】
ココパーム・リゾート/写真(別窓)
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