たった一年離れていただけで…銘柄の違うタバコの箱。
肌心地のよいブランド物のTシャツ。プールオムのコロンの香り。
あたしの知らない時間が彼を包み直した数々のアイテム。
それらを洗い流すように彼の身体にキスの雨を降らせる。
【小説紹介文】
元彼 復縁 小説 無料 モルディブ タージコーラル
アイランドジャンキー(タージ・コーラル)
「熱いよ…」
南国の夜風は意外なほどの涼しさを、海から運び島を吹き抜ける。
なのにベットの上で触れ合う肌は、昼間の陽差しのようにあたしを焦がす。
アイランドジャンキー (タージ・コーラル)
「熱い‥よ…鉄男の身体」
彼の指が肌をなぞると、背筋がぞくぞくした。
そして彼の指先があたしの身体に描いた地図は、辿った道筋通りにじわじわと、痺れを含んだ熱を運んでいく。
甘い麻薬に冒されて、身体が思うように動かない。
どこで覚えてきたのよこんな技。
一年御無沙汰の間に随分上手くなったんじゃない?
全てが彼のペースというのが気に入らない。だけどそんな悪態がつけない程に唇を塞がれた。
キス…鉄男の味がする。
子供の頃お気に入りだったお菓子を、大人になって口にしたような懐かしさ。でも包み紙が違うよ。そんな風に感じる違和感。
たった一年離れていただけで…
銘柄の違うタバコの箱。肌心地のよいブランド物のTシャツ。プールオムのコロンの香り。あたしの知らない時間が彼を包み直した数々のアイテム。
それらを洗い流すように彼の身体にキスの雨を降らせる。熱帯の湿気を含んだキス。彼は切なさに瞳を曇らせた。
ねぇ、欲しい?
みんなあげる。
だから、もっとあたしをその気にさせて。
「相変わらずだよな」
皺くちゃのシーツの上であお向けに寝ころんで、少しだけ息を乱しながら鉄男はそう言った。あたしは何も答えず、心地よい寝床を探す猫のように、彼の身体のあちこちに頭を乗せてみる。
力なく広げられた手の平が気に入った。身体を丸めてその小さな枕にもたれかかる。まだ火照りを帯びた鉄男の指。あたしの唇をその親指がそっとなぞる。
「アッコってさ、男に抱かれるっていうより、男を抱くタイプだよな」
「あら、お気に召さなかった?昔の女の味」
「…そんな事言ってねぇだろう。ただこの感覚懐かしいなって思ってさ」
そうね、鉄男の今の彼女は、恥じらいながら男に抱かれるのが似合いそうな子だものね。そう口にはしないで彼女の顔を思い浮かべてみる。どこもかしこも柔らかそうな砂糖菓子みたいな子。
あの子から一週間、元彼…鉄男を盗んだ。あたしは何をやっているんだろう。だけどもう限界だった。一年後にはまた同じ事を繰り返すかもしれない。この海を訪れる為に、ずっと誰かから鉄男を盗み続けるのだろうか。別に人の男を盗る趣味がある訳じゃない、復縁を望んでいるわけでもない。この場所に似合うのは鉄男しかいないから…
鉄男と付き合った3年間に5回モルディブを訪れた。あたし達を夢中にした蒼い環礁。恋人だった鉄男と最後の夜を過ごした場所も、こことよく似た、だけど違う名をもつ小さな島だった。
繰り返し訪れるうちに、あたしはどんどん贅沢になった。この美しい海と島の他に何を欲していたのだろう?
もっと居心地のいいコテージ、もっと趣向の凝ったエクスカッション、もっと広くて柔らかいビーチ…
もっともっと…
だから、あの最後の旅行は文句ばかり言っていた。
バタラの方が魚影が濃かったわ
ビャドゥのカレーのほうが美味しかったな。
ここのバーの音楽、趣味じゃない。ほら、トラギリのバー覚えてる?古いレゲェがいい感じだったよね。
他の島の名を並べては、その島と比べていた。全てを満足させる島などないというのに。足りないものがあっても、それはたいした事ではなかったはずなのに。
鉄男は言った。
『そろそろ潮時かもな』
あたしは欠けてしまった爪の先を不機嫌そうに見つめながら、そうね、と相槌を打つ。
『今度は違う国に行ってみるのもいいかもしれないわね』
鉄男は何も答えない。顔をあげてソファーで煙草をふかしている彼を見た。鉄男は真っすぐこちらをを見ていた。だから、あたしは話を続けた。
『ベトナムなんかも行ってみたいわ』
『アッコ…』
鉄男が視線をそらした。そして独り言みたいにぽつりと呟いた。
『潮時って俺達の事だよ』
予想もしない言葉だったけれど、意外にも思わなかった。あぁ、そうね。そうかもしれない…。
3年付き合って、沢山の時間を寄り添ったにも関わらず、あたしは馴れ合いになりすぎた二人の関係に少し物足りなさを感じ始めていた。
別れたくないの。
咄嗟にその一言が出なかった。それが自分の答えなのだとも思った。
別れると決めた後、抱き合った温もり。あれが1年前の最後の夜だった。
3年も付き合っていれば共通の友人もいるというものだ。肌に焼きついた水着の跡が曖昧になる頃、あたしの耳には鉄男の新しい彼女の噂が届いた。口を滑らした友人を、隣にいた子が睨むようなような眼差しで咎めた。
『あら、いいのよ気を使わないでよ。あたしも他で楽しんでいるし…鉄男の彼女ってどんな子? 興味あるわ』
『…だよね? アッコも新しい彼氏いるものね、ほら~気にしてないって。睨まないでよ~。あ、この前スノボーやりに行ったのよ。そこに鉄男が彼女を連れてきたって訳』
友人は携帯で撮った写真を見せてくれた。鉄男の隣に自分じゃない女が寄り添っている画面を、不思議な気分でのぞき込む。あたしの今の男を、鉄男がみたら同じように感じるのだろうか?
あたしの場合は彼氏じゃない。よく一緒に出掛けて時々ベットを共にすることもあったけれど、特別な相手だとは思っていなかった。4つ年下のサーフィンが好きなボーイフレンド。お気楽に楽しむには申し分のない相手だった。
その男の子に連れられて、何年も御無沙汰だった日本のビーチに出掛けたりした。自分の中で海のイメージは、もはやあの南国以外にはなく、冬の陽射しを浴びた灰色の海を不思議な気持ちで眺めていた。
彼の陽に焼けた肌。サーフィンで1年中陽射しを重ねて色付いた肌は、潮の香りがした。モルディブのお日様の香りをぎゅっと閉じ込めた鉄男の肌とは異なるものだった。この違いに気付く女なんてあたしだけだろう。実際、モルディブ帰りの鉄男は、よくサーファーに間違えられていたではないか。
あ、違う。
比べる意味などないのに、いや、比べているつもりなんてないのに、よくそう思った。3年もの間身体に染み付いた鉄男のイメージはあたしを時々混乱させた。
キスをするときに背伸びするつま先の感触。
身体を支えるそんな重ささえ、違うと感じた。
『アッコはいつも物足りなそうな顔してるよな』
その彼…ケンちゃんはそう言って拗ねた顔をした。
『でも、そんな掴み所がない女が好みなんだ、俺』
さらりと、そんな甘い言葉を口にして様になる男の子。海にいるとひっきりなしに、サーフィン仲間の女の子が訪ねてきた。
ねぇ、いつならいいの?飲みに行こうって言ったじゃない。
今度、新しいボード買うから付き合ってよ。
この前、忘れ物してたよ。あのCD部屋に置きっぱなしだけどいいの?
あたしの手前か、煩そうに彼女達を追い払う。一人去るとまた違う子が話し掛けてくる。その数の多さに呆れるというより感心した。
『モテモテだね。ケンちゃん』
嫌味のつもりでもなくそう言うあたしに、ケンちゃんは、アッコだけにモテればいいんだなんて、フォローできない冗談を口にするのだった。
彼氏なんて当分いらない。鉄男と過ごした3年間、他に誰かが欲しいなんて思った事もなかった。他の男を男と意識することもなかった。だから、フリーになって周りを見渡した時、世の中はなんて広いのだろうなんて今更な事に気付いた。
男は沢山いる。久しぶりに違う腕に抱かれながら、鉄男じゃなくてもあたしはこんな風に溺れる事が出来るんだなんて思っていた。鉄男と出会う前に戻っただけだ。忘れかけていた男女の色恋沙汰を、楽しむ感覚もじわじわと戻ってきた。しばらくこんな奔放さを味わうのも悪くない。ただ時折襲う違和感だけがあたしを不愉快にさせた。
あ、違う
ジャンキーを襲うフラッシュバックのように鉄男の記憶の断片が脳裏を覆う。何故かそれは全てあの海の香りを含ませて、いっそう甘く切なくあたしの胸を弾くのだ。
シルクのパレオをほどく衣ずれの音
ココア色の指先に散らばった真珠色の砂粒
瞳の奥に揺れるあおいゼリー色の海
あたしは何に冒されているのだろう? それらを振り払い目の前の現実を凝視する。
夜景を眺めながらもてあそぶカクテルグラス。耳元に吹きかけられる魅惑の誘い文句。年上の男。年下の男。
あたしの欲しいものは何?埋まらない隙間はどうしてなんだろう。
ケンちゃんから週末のデートのお誘いのメール。彼の隣が今は一番気楽だった。他の男達と違って、置くべき絶妙な距離感を彼は知っていたから。
何も求めてこない。そんなあたしが引いた一線に、踏み込む事を決してしなかった。
ケンちゃんが夕食に指定したレストランは彼の下北沢のアパートメントだった。昼間から仕込んだという手料理が、テーブルいっぱいに並べられている。
エスニック料理だった。ナシゴレン、タイカレー、サテー…
昔、六本木の料理店で、バイトした事があるんだと話ながら彼は器用に野菜と海老を生春巻に包んでいく。はい。と出来たてを口元に差し出され、彼の手の中から雛鳥の気分でそれをついばむ。
4つも年下の男の子に、子供扱いされるのが何故か心地いい。女はこんなふうに、何もかもを委ねて寛ぐひと時に弱いものだ。
『ねぇ、ケンちゃん。あなた若いのに、女の扱いが上手いのね』
『そう?ただ女の子が美味しそうに食べているの眺めるのが好きなだけなんだけどね。それに家で食べているとさ、こんな事も出来ちゃうし…』
ぺろりとケンちゃんはあたしの下唇を舐めた。あれ、何か付いてた?まるで子猫の毛づくろいを手伝う親猫だ。
あ、ココナッツの香りがする。
白い砂浜に転がった、ひびが入ったココナッツの実。
あの時、鉄男は手のひらに滴る雫を集めた。その手から啜った果汁の香りがふいに鼻腔をくすぐる。
テーブルに並んだ香辛料をふんだんに使った料理の中でどうしてこの香りにだけ反応してしまうのだろう。
もう、うんざりだわ。
気が付くとケンちゃんを床に押し倒していた。彼は少し驚いた様子で目を見開いていたけれど、あたしが唇を寄せると、ゆっくりと瞼を閉じた。
隙間を埋めつくすように、繰り返しキスを落とす。
『どうしたの?アッコ』
あたしの首に回されたケンちゃん腕。その指が優しくうなじを撫でた。いたわるように、あやすように。
『泣きそうな顔してる…』
助けて。
声にならない叫びを胸に押し込んであたしはおどけた口調で言葉を返す。
『あたし、可哀想なくらいお腹がへってるの。ケンちゃんが美味しそうに見えたのよ』
あたしの心は引っ掻き傷だらけだ。鉄男と島々の記憶の断片は、引き剥がすたびにあたしに傷跡を残した。
忌々しい。こんな事になるなんて思ってもみなかった。自分がこんな想いに翻弄される種類の女だったなんて。軽蔑していた感情。そう、これはまさに未練という代物ではないか?
そんなものとは無縁に生きてきた。鉄男と3年続いたのだって、それがあたしにとって居心地がよかったから。ただそれだけ。別れたのもただその延長。あたしをつなぎ止めていた想いが掠れたから…
なのにどうして?
終わった恋はセピア色の写真のように心のアルバムにしまわれて、あたしが気紛れにめくるのまで、息を潜めているはずのものだった。だけど南の島の日々は金色の陽差しに照らされて、鮮やかな色彩をまとい、あたしの心に降り注ぐ。
跪いて手を伸ばせば楽になるのだろうか?
慣れない焦燥感に気が狂いそうだ。だけど最後のプライドがあたしを支えていた。震える爪先で、必死に耐えていたのに…まさかケンちゃんがその背中を押すなんて。まさか彼の口からあの島の名が出るなんて。
ケンちゃんが海からあがるのを、ぼんやりと砂浜で待っていた。風が春の気配を感じさせる。これで何度目だろう?既に見慣れた九十九里浜の海岸線を視線でなぞる。最近はあまり女の子も寄ってこなくなった。あたしのせい?恋人だと勘違いさせているのかもしれない。そうだとしたらケンちゃんに申し訳ないな…なんて思った。
ケンちゃんがサーフボードを抱えて真っすぐこちらに歩いて来るのが見える。すれ違い様に挨拶をかわした女の子が、名残惜しそうに彼の背中を見送っている。
ゆっくり話をしていてもいいのに。あたしに気を遣っているのか、早々に切り上げで歩いてくる。
いくら春先とは言え、海水は冷たいに決まっている。あたしの髪を梳くように流れる優しい風も、濡れた身体からは体温を奪うはずだ。ポットから温かい紅茶を注ぐ。ミニボトルに忍ばせたブランデーを数滴たらし、隣に腰を降ろしたケンちゃんに差し出した。
『アッコの紅茶、いい香りだ』
ケンちゃんは蓋がそのままカップになった容器に手を添えて、その小さな温もりを味わっている。
そして思いついたように唐突に話し出した。
『アッコって来月仕事忙しいの?』
『う~ん。忙しいのは今月かな。来月はそうでもないよ』
『じゃあさ、旅行行かない?海外…毎年、サーファー仲間でバリに行ってんだ。旅行会社に勤めてる奴がいてさ、格安なの』
『へぇ…でもあたし、サーフィンやらないし、それに仲間内の話でしょ』
『女の子連れてくる奴もいるよ。ほら、マリとかも来るんだ』
ケンちゃんを通して知り合った、気さくな女の子の名が挙がる。たまには、そんなのもいいかな?気持ちはそんな風に傾いていた。
『でもさ、今年はちょっと違うトコに行こうかって話になっててさ、すげぇいいトコ。だからアッコも連れて行きたいなって』
『違う所?』
『最近サーファーの注目集めてるんだよね。値段もさ、サーフィンが出来る島はカジュアルで値段も安くて手ごろなんだ。でも写真見てびっくりした。こんな綺麗な海があるんだなって…知ってる?モルディブって』
えっ?ケンちゃん今何て言ったの。
『インド洋のほうにある小さな島の群島なんだって』
モルディブ。その言葉に過剰なまでに胸が跳ね上がる。
『…やぁねケンちゃん、小さな南の島なんて恋人と二人で行く場所よ』
やんわりと断りの意味を含ませて、冷や汗をかきながら彼に言った。ケンちゃんは、しばらく黙り込んでいた。そして声を落としてそっと耳元で囁いた。
『じゃあさ、二人で行こうか?俺、サーフィン出来ない島でもいいからさ』
『えっ』
『アッコと行ってみたいんだよね。あんな海』
ケンちゃんの見た事のない真剣な眼差しに捕らえられて瞬きすら出来ない。
『こんないいかげんな俺が今更だけどさ、アッコの事…大切にしたいなんて思っちゃうんだよね。どうしてだろう』
ケンちゃんの髪から海の雫が滴っている。ぽたぽたと落ちる水滴が、やけにゆっくりに感じて…それは、心に染み込む彼の言葉のように砂に模様を描いて吸い込まれていく。
誰かに愛される心地よさ。ケンちゃんは見事なまでに鮮やかにあたしの一線を踏み越えて心に忍び込んできた。だけど、それと同時にあたしが必死に堪えていた背中も押してしまった事に彼が気付くはずもない。
行こう、あの島に。
そう決めた途端、身体が軽く感じた。そして、ケンちゃんを見つめ返す。自分の心にただ素直になってみれば、求める相手はただ一人だった。今更かもしれない。でも仕方がない。心は正直なのだから。
『…ケンちゃ…』
言い掛けた言葉が押しつけられた唇にかき消される。
『わかってるんだよね俺…振られるのなんてさ。元彼さん…アッコの心を捕らえている男がいるなんて気付いてた。黙ってりゃ、こうして一緒にいられるのに欲が出た。久しぶりに誰かを好きになんてなったからさ…柄にもなく全部欲しいなんて…思っちゃったりしてさ。らしくないよね?』
ごめんね。
居心地の良さに甘えてた。
『俺、セカンドでもいいけど?やっぱそういうキャラじゃん?』
いつものふざけた眼差しで、ケンちゃんはおどけてみせた。
『…馬鹿ね。ケンちゃんだけを大切にする女の子がちゃんといるわよ』
さっき、いつまでも彼の背中を見送っていた女の子が頭をよぎる。ケンちゃんを取り囲む女の子達の少し後ろからあの子、いつもあんな目でそっと彼を見つめていた。誰だっけ、そうケンちゃんの男友達の妹だった。
どうして気持ちはすれ違うのだろう。満たされた泉以外の場所に潤いを求めるのだろう。そこに身を沈めてしまえば楽になれるというのに。
夜中、携帯電話が放つコール音を息を潜めて数えていた。
『…どうした?』
一年ぶりの鉄男の声。眠っていたのだろうか、記憶より低く掠れて耳に響く。あたしは唐突に話を切り出した。
『いい島があるのよ。たまには水上コテージなんていいと思わない?』
あたりまえのような口調。鉄男の前では、気紛れに別れた男を誘うはすっぱな女を演じた。しばらくの沈黙の後、呆れた声で鉄男は言った。
『酔ってるのか?』
あぁ、それっていい設定だ。あたしはその言葉に便乗した。
『ワインを一本空けただけよ。ねぇ、あたし本気よ。もうコテージも押さえたのよ』
『俺が断ったら他の男に電話するのか?』
『いやぁね、あの海に誘える男、貴方の他にいないでしょ?』
ふふっと意味深な含み笑いで茶化してみせる。
『俺、今付き合っている女がいるんだ』
『知ってるわ。可愛い彼女ね、年下?』
『…知ってて誘ってんのかよ』
『あたし、別にあなた達を引き裂こうなんて思っていないわ、復縁を迫っているわけでもない。ただあの海が恋しくなっちゃったのよ』
『ふざけんなっ』
電話が切れた。
どうしてあなたが恋しいのだと素直に言えないのだろう。鉄男が行かないのなら、一人で行くつもりなのだと伝えられないのだろう。
ケンちゃんの真剣な眼差しを思い出す。真っすぐな思いは心に響くものなのだと教えてもらったばかりだというのに。
暗がりの中、携帯電話の着信を知らせるブルーのライトが点滅する。鉄男だった。電話に出たものの、沈黙が流れた。
『…お前が考えろよ、言い訳』
ぼそりと、呟くような声だった。
『言い訳?』
『彼女への言い訳だよ。一週間留守にして真っ黒になって帰ってくる言い訳。俺、苦手だそういうの考えるの』
不手腐れた声。
だけど…それって…
『そうね。会社の社員旅行で、ハワイに行くなんてどうかしら、ハワイ物ならお土産も、成田で手に入れられると思うわよ』
『…お前、よくさらりとそんな事すぐに思い付くよな』
悪魔だな…小さく呟く声が聞こえる。
『聞こえてるわよ』
『あ?ま、いいや。それより、島の名前教えろよ』
『…いいの?』
『俺だって行きたくてうずうずしてんだよ。アイツと行く訳にはいかないだろう』
アイツ…その言葉が胸に突き刺さる。そして人を裏切る後ろめたさ。
“ダイジョブ、リゾートデハ神様モ片目ヲツブッテクレルカラネ”
一瞬、こんなセリフが脳裏をかすめた。
あれ?何だっけ。
前に訪ねた島で、親しくなったマリンスタッフのモルディブマンとバーで一緒に飲んだ事があった。ドレッドヘアのモルディブマンっていうのも珍しい。その男が美味しそうにビールをあおるので、からかうように尋ねてみた。
『イスラム教はお酒飲んじゃいけないんじゃないの?』
彼は悪びれる様子もなく片目をつぶって答えた。
『ココハ特別ネ~。ダイジョブ、リゾートデハ神様モ片目ヲツブッテルクレルカラネ』
マーレでは真面目なモスリムだよと彼は言った。いい加減で暢気な南の島の若者に苦笑いした。
鉄男を盗んで旅立つバカンス。
こんなあたしにも神様は、片目をつぶって見逃してくれるのだろうか?
鉄男が隣で眠っている。静寂が舞い降りる小さな島で、何度も繰り返した夜をあたしは久しぶりに抱き締めた。シーツにうつぶせになって眠る鉄男の寝息に耳を傾けると、いとおしいと思う気持ちが切なく胸を摘みあげる。
一年前、最後に彼の隣で眠った夜に見過ごしていた想い。馴れ合いの関係にあぐらをかいて、自分が失うものがどんなに大切かさえ見失っていた。
久しぶりに鉄男に抱かれた感触がまだ身体の奥底でくすぶっている。覆いかぶさってくる様々な感情を、床下から漂う波音がゆっくりと洗い流していく。
この場所に鉄男と居る。ただその事に満たされていた。
そして、静かに悟った。限られた時間の中で何をするべきなのかを。一年前、いい加減にやり残してきた恋の終わりに幕を降ろすべきなのだと。あたしを捕らえて蝕んでいた甘い麻薬にどっぷりと浸かり、訪れるべき禁断症状に立ち向かうのだ。
鉄男のいない人生にしっかりと踏み出すために、彼への愛を再び噛みしめよう。
こんな茶番はあたしを傷付けるかもしれない。だけど、進むべき地図を持っていればもう、迷うことはないのだ。
タージ・コーラル。半径80mしかないハート型の小さな島。
こんなロマンティックな形をした珊瑚礁の島があるなんて。
海が夕日に染まる頃には、エイの群れが浅瀬に集う。この手から1mほどもあるエイが餌をついばんでいく。
ラグーンヴィラと呼ばれる水上コテージからは、何も遮るもののない一面の海と空が眺められた。
この楽園で愛を抱えてそっと寄り添えば、南国の空気は濃度を増してまとわりつく。
色づき始めた肌に散らばるホワイトサンドは、お菓子にまふざれた砂糖のようで、あたし達はビーチの木陰でその甘い身体を絡め合った。
終わりを知らない子供のように欲しいものだけをむさぼる自堕落で甘美な時間。
堕ちていく。
堕ちていく。
蜂蜜色の陽射しが糸を引いて降り注ぐ。あたしを翻弄した記憶の断片が、現実になって輝き始めた。
あぁ、これだ。
何もかもに満たされる至福のひと時。
惰性とはなんて愚かな代物だろう。こんな輝きさえ色褪せて見せてしまっていたなんて。だから失うのだ。、そして初めてその重みに気付いて今更に胸を痛めている。
誰と訪れてもこの美しくロマンティックな舞台では、素敵なバカンスが繰り広げられるだろう。だけど鉄男だから…鉄男と一緒だったからこんなにもあたしは溺れる程に幸福だった。
忘れていただなんて。そう、忘れていた。そんな人に出会えた偶然を。
知恵を授かる代償は、なんて大きいのだろう。だけど学んだだけあたしは救われる。もう二度と過ちを繰り返さないために、あたしは最後のバカンスを深く心に刻みつける。
シャイなレストランのボーイも、日にちを重ねるごとに友達のように親しい笑顔を見せてくれる。言葉の通じない異国のゲスト達と、1杯のドリンクを賭ける砂浜の上でのヤドカリレース。椰子の木にかけられたハンモックに揺られるうたた寝のひと時。星降る夜空を眺めながら寝転ぶ砂の柔らかさ。
時間の感覚が薄れていく。イルカの群れを眺めたのは昨日だろうか?
隣に鉄男がいる。
同じ光景に笑って驚いて……このひと時を分け合って流れる時間に身を任せた。
その日は朝から雨だった。いっときのスコールとは違い、しとしとと雨粒がコテージを湿らせる。
「明日、帰国だっていうのについてないな」
鉄男はひとり先にベッドから抜け出すと、ミネラルウォーターを瓶ごと飲み干した。
「雨の海もたまにはいいんじゃない?」
最後の一日。あたしはコテージに鉄男と籠もる事を密かに嬉しく思っていた。鉄男はベットに腰を降ろすと、不思議そうに言った。
「去年、一日雨だったの覚えてる?お前すげぇ不機嫌になっちゃってさ、今年は随分しおらしいのな」
からかうように、あたしの肩を人差し指で突っついてくる。あたしはやめてよ~とシーツに潜り込むと、攻撃から身を守るために膝を抱えて丸まった。
シーツを探る気配がする。あたしは手と足の間にシーツを絡めるとミノムシのようにくるまって体を固くした。
上からのしかかってきる鉄男の重み。丁度、顔の所だけこじ開けるようにシーツがめくられる。あたしを覗き込む鉄男の動揺した眼差し。
「ばっ…か、お前…何、泣いてんだよ」
そう、あたし何で涙が急に溢れてきちゃったんだろう。鉄男とコテージでのんびりできるってさっきまで嬉しく思っていたのに、このバカンスが終わる予感に急に胸が締め付けられた。
バツが悪くてあたしは、もぞもぞと再びシーツの中に逃げ込んだ。息をするたびに小さくしゃくりあげて、シーツは湿気を帯びていく。
「…止めろよ、そんな泣き方。お前らしくもねぇよ」
鉄男の声が怒っている。彼の重みが離れていった。こんなみじめったらしいあたしに、呆れているに違いない。未練なんてみせて、泣いてみたって今更なのだ。
「おい」
シーツ越しにあたしの頭に大きな手が添えられた。
「どうした?明日帰るのが不安なのか?俺を誘ったりして変だと思ったよ…ほら…年下のサーファー野郎、あいつと上手くいってないのかよ?」
え?どうして鉄男がケンちゃんの事、知ってるの。
「前に、エリコの店で見かけたんだよ。いい男だったじゃん」
下北沢でイタリアンレストランを開店させた友人の店にケンちゃんと食事に出掛けた夜を思い出す。そういえばエリコ、随分慌てた様子で妙に奥まった席に案内してくれたっけ。まさか、鉄男がいたなんて…サーファーで年下だなんて、誰かが告げ口したに違いない。
頭がぐるぐる回る。混乱して息が苦しい。
「喧嘩でもしたのか?だから俺を誘ったんだろう?」
何も答えられなかった。優しく触れていた手の感触が止まる。そして手荒にシーツを引き剥がされた。
寝起きで頭もぼさぼさだろう。涙でぐちゃぐちゃの顔に髪がへばりついている感触。反射的に両手で顔を隠していた。こんなあたし、見られたくない。
だけどその手を鉄男は片手で頭の上に押し上げる。そしてまじまじとあたしを息がかかる距離で見下ろしてきた。
「一年前俺と別れる時、涙の一粒もこぼさなかったのにさ、他の男の為にはそんな風に泣いたりするのかよ」
違うのだと言い返そうにも、しゃくりあげるだけで言葉にならない。
「…気に入らないよな。この島に居る時に、俺以外の男の影を見せるのはさ、ルール違反じゃないの?」
こんな鉄男を見た事がなかった。バカンスでのエスコートは甘く完璧にこなしながらも、取り乱すことのないクールな人だった。どこかあたしと似た少し冷めた大人の男。
“潮時って俺達の事だよ”
あんなさらりとした別れの言葉が似合う人だったのに。
今、乱暴に覆いかぶさっている男は鉄男なのだろうか?まるで嫉妬しているみたいだ。あたしを独り占めしたくて拗ねている子供ではないか。
あんたこそ、可愛い彼女が、日本で待っているくせに…
だけどそんな無粋な台詞は飲み込んだ。そんな事、思い出したくもない。
涙が染みたシーツを蒸発させるように、熱く激しく流されていく。
最後だから?
そう思えば尚更に、涙は止まらずに溢れ出すばかりだ。
ねぇ、愛してる。
鉄男じゃなきゃ駄目なの。
溜め息の隙間に想いを忍ばせて、うわ言みたいに真実を囁く。
愛してる。
馬鹿みたいでしょ?別れてから気付くなんて。
…夢?あたし眠ってた。
窓の向こうには、眩しいくらいのブルーが広がっている。
海?空?
寝起きの瞼には眩しすぎる。
すごい夢見ちゃったな。体が火照っている。ベッドの上に鉄男はいなかった。床に足を降ろそうとして、自分が裸なのに気付く。
…あ、夢じゃない。
カチッと音がしてバスルームから鉄男が出てきた。腰に巻かれた木成りのバスタオルが陽に焼けた肌に映えている。さっきの情景が頭に浮かび、思わず視線を反らした。そんなあたしに構わずに、鉄男はこちらにずかずかと歩いてくる。
「ごめん。乱暴に扱って…」
あたしの手を取って手首を見ている。さっき、掴まれていた部分が少し赤くなっていた。
あぁ、やっぱり夢じゃなかったんだ。
「平気…気にしないで痛くもないし」
そんな事より、あたし…さっき、何て言ってた?
ベッドの上で抱かれながら、口にしてしまった言葉の数々を心の中で反芻する。鉄男が気まずそうに視線を泳がしているのがわかる。
あぁ、そうだよね。困っちゃうよね。
「さっき言った事気にしないで。ね?…鉄男に恋人がいることなんて判ってるから」
言ってみたかっただけ…小さく消えそうな声で呟いた。
「泣いてたの、この旅行が終わるからか?」
もう、いいじゃない。何にも言わないでよ。
「…お前、馬鹿だよな」
馬鹿…今、馬鹿って言った?
あたしは裸だったのも構わずに、思わず立ち上がると何も言わずにバスルームに向かおうと足を踏み出した。
「アッコ」
隣をすり抜けるときに腕を掴まれた。
「いや、お前だけじゃない。俺も馬鹿だ」
後ろから抱きしめられる。あたしの背中と鉄男の胸が隙間なく重なって、その温もりに胸が詰まった。
「彼女と一緒にいても、お前の事ばかり考えていた。もう終わってるのに情けないって思っていたよ。偶然お前の男も見ちゃってさ、結構落ち込んでいた。まさか電話がくるなんて思ってもみなかった。この海に来るのに、わざわざ俺を誘うって感覚は何となく理解できたんだ。お前の気まぐれに付き合って、たった1週間だけでもいいと思った」
鉄男の心臓の響きが、直接肌に伝わってくる。いや、これはあたしの心音かもしれない。重なる鼓動が耳元まで響いてくる。
息を飲み込んで、鉄男の言葉を聞いていた。
「俺、離さないよ?」
胸が跳ね上がった。
「何言ってるのよ…彼女どうするのよ」
「俺さ、お前みたいに悪知恵働かないしさ、旅行の事隠すなんて上手く出来ないしさ…別れたんだ」
「えっ?」
「俺にもったいないくらいのいい子でさ、嘘つけないから別れてきた」
本当にあたし達、どうしようもない大馬鹿者だ。こんな回り道をしないと、愛し合っている事にも気付かないなんて。
その為に、傷付けてしまった人達がいる。その事を、決して忘れてはいけない。
“ダイジョブ、リゾートデハ神様モ片目ヲツブッテクレテルカラネ”
あの台詞が再び脳裏をよぎる。
頭に浮かぶの南国の神様は、その言葉を口にしたドレッドヘアのモルディブマンのように陽気なイメージで、ふざけた笑顔でウィンクを投げながら、あたし達を笑い飛ばしている。
いっぱしの大人の女のつもりでいた。だけど繰り返してきた色恋沙汰のキャリアなんて、純粋に愛し合う事の前では何のお手本にもならないのだ。
小さな子供が、初めてピアノの前でバイエルをめくるように初心に返って、鉄男と恋をはじめよう。
愛を意識し出したあたし達が奏でる曲は、笑っちゃう程たどたどしいものに違いない。
だけど、大丈夫。
この波音が、その音色を美しく導いてくれる。
背中に重ねられた温もりが、すっと動いて、あたしのうしろ髪に鉄男は顔を埋めた。
「何か今更で、こっ恥ずかしいよな」
ティーンエイジャーみたいに気のきいた言葉を探しては、途方に暮れている。だけど、いいじゃない。こんなのも、悪くない。鉄男がやっと探し当てた愛の言葉を、あたしの耳元に注ぎ込む。
「次はどの島に行こうか?」
これが愛の言葉だなんて思うのは、アイランドジャンキーだけかもしれない。
だけど、また訪れるであろうバカンスへの約束は、どんな愛の囁きよりもあたしを甘く酔わせるのだ。
【END】
タージ・コーラル/写真(※別窓)
※ケン視点『you don’t love me』
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