保健の先生…白木先生はあたしとセンセイの間に割り込んできた。
「大丈夫?いつもここで、こんな風に早瀬先生と会っているのかな」
あたしは妙に優しい声で語り掛けてくる彼女を眺めた。綺麗にお化粧された顔。作り笑顔が口元にうっすらと浮かんでいる。
「短歌の解釈を教えて貰っているんです」
あたしの答えに、白木先生は不満そうな溜め息をついた。
「ねぇ、兵藤さん…最近、病院には行ってるのかな?お薬は飲んでいるの?」
何が言いたいのだろう。この女は。
「同じ年ごろの男の子には興味ないのかしら?あなた、男子にすごく人気があるのに…」
怪訝な顔であたしは彼女を見た。とんだ邪魔者が飛び込んできたものだ。
「もしかしたら、早瀬先生とお父様が重なるんじゃないかしら?」
ごぼっ
あの音が遠くで聞こえた気がする。
「だから、早瀬先生なのかしら?」
…ヤメテ
センセイに視線を移す。彼の瞳に困惑の色が見て取れた。
「ねぇ、兵藤さん…」
ウルサイヨ、アンタ
「いいえ、あたし早瀬センセイだから選んだんです」
思わせぶりな台詞をわざと吐いてみる。目の前の女が、動揺する息遣いが伝わってきた。彼女、あたしと同類だ。思わぬ共通点を感じとり、親しみすら込めて話を続けた。
「だって、センセイは色んな事を教えてくれるの。どれもとても素敵なのよ」
顔を赤くして白木先生はあたしを睨み付けてきた。憎しみを込めた眼差しで…
「白木先生、質問するなら僕にしてください。この子を尋問するのは止めて欲しい」
センセイの声は燐としていた。後ろめたさを感じさせない響きはあたしを安心させる。
「……最近…おかしいと思っていたのよ。一緒に過ごしていても上の空で…」
その震えた声は、白木先生のものだった。
「省吾、あなた夕べも…あたしを何度も抱いたくせに…気づいているの?最後に小さく、いつもに他の女の名前を口にするのよ。
昔の彼女の名前なのかと思っていた…あたしが好きになって始めた付き合いだからそれくらい流そうと思ったわ。だけど…」
ほら、一緒だ。同じ人を愛して、全てが手に入らないもどかしさに胸を痛めている。
心と身体。
ひとつしか手に入らないのならば、どちらがより満たされるのだろう。ねぇ、白木先生とあたしは、どっちが幸せ?
「…省吾…あなた自分が何をしているかわかっているの?
この子はまだ15歳だし、それに…彼女はヨットでの事故が原因で心に傷を負っているの。PTSD…わかる?心的外傷後ストレス障害…一緒に事故に遭った父親が亡くなったショックと自分自身が死に直面した恐怖心、きっと貴方に大人の男の…安心感を求めているだけなのよ」
ゴボッ
あの日、夏で水着を着ているという開放感もあった。パパが咎めるのを聞こえない振りをして、ライフジャケットを付けもしないでヨットに乗り込んだ。沖に出てしばらくした所で、急に荒れ出した横波がヨットを大きく傾けた。そして水面に横倒しになったのだ。プールと全く違う激しい海流に飲まれて、いくら水を掻いても流されていった。羽織っていたパーカーに水が染みて、鉛のように身体が重い。
落ちる
落ちる
沈んでいくあたしを探す為、パパはライフジャケットを脱ぎ捨てて潜ってきた。力強い腕に掴まれて、海面に顔を出した。パパが安心した顔で笑いかけてくれた時…流れてきたヨットの帆が、パパの頭を直撃したのだ。
気を失ったパパを、あたしひとりでは、支える事なんて出来なかった。パパを抱き締めながら、二人で海に沈んでいった。ゆっくりとゆっくりと沈んでいった。夢なんだと思った。見上げると、雨雲のような海面が揺れていた。パパの口から小さな気泡が小さくいくつも漏れていた。
記憶はそこまでだ。
どうしてあたしは生きているんだろう?
アタシガ殺シタ…
そう、パパを殺したのは、あたし。
「あたし、センセイを大人だなんて思ったことないわ」
おいたをした子供が、指をもじもじさせながら、申し訳なさそうに罪を告白する気分でそう言った。白木先生は驚いた表情で、彼から視線をあたしに移した。やだ、笑いが込み上げる。いくらなんでも彼女に失礼だ。こらえきれず、クスクスと、笑いを噛み殺しながら言葉を繋げる。
「だってセンセイの子供みたいなところが好きなんだもの。センセイと一緒に居ると自由になれる。プールでも彼の腕の中でもあたしは泳ぎ回ることすら出来るのよ」
あたしの愛の告白に、センセイは少し恥ずかしそうに俯いた。白木先生は怯えた表情で、あたし達の間に立ち尽くしていた。泣き出しそうな彼女に、少し同情した。白木先生は懇願する様子で、センセイの腕を掴むと、その身体を揺さぶった。
「…省吾っ、このままいったらどうなるかわかっているの?あなた、犯罪者の烙印を押されるのよ。…嫌よあたし、貴方を失いたくない
この子の世界に入っていっちゃ駄目」
彼女は引きずるように、センセイを部屋の外に押し出していった。その間あたしとセンセイは、共犯者のように視線を絡ませて、彼女の感情の高ぶりを、困ったものだと肩をすくませていた。だから、あえて引き止めたりなんかしなかった。愛されているという余裕が、あたしとセンセイを繋げていた。
扉が閉じる前にセンセイは、またね、と声を出さないで唇の動きだけで言ってみせた。あたしは、唇に人差し指を立てて、内緒にね、とおどけてみせた。
…あれがサヨナラになるなんて、どうして悟る事など出来ただろう。センセイは次の日も次も日も、学校に来なかった。4日目の朝礼で、「早瀬先生は実家の都合で退職される事になりました」と校長先生がマイクに向かって話しているのを、全身の血が凍りつく感覚の中で聞いていた。
視界がチカチカと、色彩を失っていく。吐き気を堪えてしゃがみこむあたしを、クラスの子が付き添って保健室に運んでくれた。
堅いベッドの上で目を覚ますと、白衣の白木先生が脇の椅子に座っていた。彼女の表情は固く、どちらが病人か分からないほどに青ざめて見える。横たわるあたしの足元に肘をついて、礼拝をするような仕草で、彼女は懇願した。
「追いかけないで」
あたしは黙って天井を見詰めた。
「…お願いだから…」
15歳の少女に何が出来るというのか。彼女はどうして、あたしをあんなに恐れたのだろう。奪われたのはあたしだというのに、どうしてこの人が泣いているのだろう。
センセイ…
最後に交わした言葉なき挨拶。
センセイの唇は確かに語っていた。
“またね”
寂しかったけれども、不思議と悲しみは湧いてこなかった。きっとあたしを迎えに来てくれる。そんな思い込みが、あたしを支えていた。
淡々と月日は流れていった。いつの間にかあたしは高等部に進級していた。校舎は中等部とは離れた場所にあり、日常を忙しくする事で気分を紛らわせていた。2年が過ぎる頃には諦めの感情が、センセイの記憶を思い出に変えていた。
少しずつ、彼氏と呼べる存在も受け入れられるようになっていた。高校生らしく、下校を共にしたり、週末のデートをしたり。ちょっとした違和感を感じながらも、こんなものなのだと自分に言い聞かせていた。
そんな時、不意に風の噂で耳にしたのだ。
「中等部の白木先生、結婚して早瀬になったんだって。ほら、ちょっとだけ水泳部の顧問なんかもしていた、若い国語の先生いたじゃない。あの人と結婚したみたいだよ」
放課後、あたしは久しぶりに中等部の校舎に足を運んだ。そっと、あの書物部屋に忍び込む。時間が止まったような空間の中、あの頃のようにお行儀悪く机に腰掛けてみる。
窓から覗く見慣れた風景。真冬だからだろう、プールに人影はなかった。
最初に交わした、ここでの会話が頭をよぎる。
“みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす”
(みだれ髪を綺麗に結い直して、朝寝しているあなたを揺り起こす)
高校2年生。付き合っている彼との時間に身を任せ、ベッドを共にする事も覚えていた。そんなあたしは、この歌の意味を15歳の時とは違う重さで解釈できる。愛なんて高尚なものがなくても、人肌の温もりが与えてくれるひと時の安息を知った今、改めて乱れ髪の一節を噛み砕く。
センセイ…共に夜を過ごす相手が貴方だったら……降り注ぐ朝の陽射しの中で、愛しい人を揺り起こすひと時とは、どんなに満たされた至福の時間だろうかと。
急に空虚感に襲われ、あたしは泣いていた。あの事故以来、泣いた事なんてなかったのに。センセイが去ったあの日、いつか会えるという希望にすがっていた。泣いたりしたら、センセイが戻ってこない気がして恐怖が涙を押さえていた。
だけど、やっと今日あたしはセンセイとの別離を悲しむ事が出来る。激しい感情ではなかった。じわじわと押し寄せる喪失感。静かな哀しみの涙は、この部屋に降り積もる。
センセイ…ほら、貴方と過ごした時間を振り返るだけで、またあたしは涙の水溜まりで泳ぐ事が出来る。
PTSD…心的外傷後ストレス障害。
泣く感情すら奪っていたのだ。素直に哀しみに身を任せられるという事。それはあたしを開放してくれる。
未だにプールで泳ぐ事は出来なかった。だけど、流した涙の分だけ心が軽くなった。貴方は変わらずにあたしを救ってくれる。
結婚したセンセイに、裏切られたなどとは思わなかった。ずっとずっと愛している。誰が認めてくれなくても、貴方を想うあたしの心を縛れるものなどないのだから。
色褪せた本の山の間に、抜けるような青い1冊の写真集が覗いていた。あの時、センセイが置き去りにした南の島の写真集。
無邪気な台詞が、部屋にこだまする。少し大人ぶった甘えた声で。
“センセイ…こんな誰も知らないような小さな島でだったら、一緒に眠ってくれる?”
小さな窓辺で、あたしは写真集を開いた。刻々と陽が暮れていく中、その海の色彩が薄暗く色を失っていく様を、いつまでいつまでももぼんやりと眺めていた。
異国の香料の匂いが漂う。肩に優しく触れられる感触。はっと顔を上げると、民族衣装をまとったスチュワーデスがに艶やかに笑い掛けている。
「What would you like to drink?」
「Red wine, please」
…透明なプラスティックのコップに注がれたゆらゆらと揺れる赤ワインをぼんやりと眺める。自分が今いる場所に現実感がなかった。
乗客は日本人が7割、インド系と伺わせる人達が残りのほとんどを占めていて、西洋人はほんの数人しかいない。海外の童話本の翻訳を手掛ける小さな出版社に勤めて3年、出張でしばしば海外に出掛けることもあったが、ほとんど行き先は英語圏。スリランカ航空など縁もゆかりもなかった。
そっと目を閉じると、あの時の、編集長の少し驚いた顔が浮かんできた。
『いや、君の連絡先を、岩谷出版社にいる南洋介の編集担当者に渡す事くらいできるけれど…だけどあの南洋介と兵藤さんが知り合いだとは驚きだな』
どういう知り合いなの?と編集長は、興味津々に尋ねてきた。今、一番旬な有名作家と、駆け出しの無名の翻訳家。意外な取り合わせなのだろう。その疑問にふさわしく、意外な関係を告白する。
『昔、水泳のコーチをしてもらった事があるんです』
そう、それが月曜の朝の出来事だった。
南洋介という筆名をもつセンセイには、ファンレターなんてものも山のように届くのかも知れない。知り合いを介して届けるメッセージのメリットなんて、山積みされたファンレターの上の方に積み上げて貰えるくらいの事だろう。
その夜中、電話の音に揺り起こされた。きっと、淳一あたりが酔っ払って、名残惜しんでダイヤルを回したのだろうとうんざりした気分で着信の名前も確認しないまま電話に出た。
『…ごめん、こんな時間に』
電話の声など耳にしたことなどなかった。まさか、あたしが編集長に伝言を頼んだその夜に、電話が掛かってくるなど思うはずもないではないか。まさかまさかと思いながらも、『センセイ…』と口にしていた。
飛行機は定刻通り、マーレ空港に到着した。センセイの電話から4日後に、自分が南の島に足を踏み入れようとしているなんて夢みたいだ。早めの夏休みを取りたいと、頭を下げるあたしに、編集長は訳ありだと理解してくれたらしく、仕事に支障がなければいいよと言ってくれた。不意打ちの願い事を連日すれば、あの作家が関わっているのかと勘ぐられても不思議ではなかったが、彼は何も聞いてはこなかった。
夜中の電話でセンセイはおもむろにこう言った。
『もし、仕事の都合がつくのなら…木曜の飛行機を手配するから…よかったらこっちに来てもらえないかな?』
飛行機の手配?あたしはセンセイが北海道や沖縄にでも住んでいるのかと首をかしげた。
確かに本の最初の頁に、南の島のビーチで寛ぐセンセイの写真があったけれど、本当にモルディブに住んでいるのだとは思ってもみなかった。
電話では二人共、うまく言葉が出なかった。とにかく会いたいのだという気持ちで一杯だった。
翌日に、休みが取れたという連絡を、あたしから入れた時も同じだ。彼の嬉しそうな様子は伝わってきたけれど、お互いに言葉は途切れ途切れのままだった。ただ、胸の奥のひっかかりだけは、飲み込めなかったので、一言だけ彼に尋ねた。
『あたし…行ってもいいの?』
『うん、俺、気ままな独り暮らしだから…君こそ、誰かに咎められたりしないかな?』
遠回しな探り合い。先生が独り暮らしとは意外だった。子供がいても不思議ではない年月だ。子供の学校の都合とかで白木先生とは離れて暮らしているのかもしれない。
でも、それ以上、深くは考えなかった。小さな島にはセンセイしかいない。それで十分だ。
飛行機のデッキを降りる。南国の熱気が身体にまとわりついた。夜の闇が周りの景色を隠し、ここがあの写真の場所だなんて思わせてくれるものは何も見当たらない。暗がりに、やたら眩しいライトが灯る空港の建物が見えるだけだった。
積んでいた荷物を受け取り、出口に向かう。派手な旅行代理店の札を手にした現地の男たちが、なにやら自分の客を探して叫んでいる。どこに行ったらいいのか…迎えに行くからとセンセイは言っていた。だけど…。
その時、腕を掴まれた。現地の男かと見間違う程に、日焼けしたセンセイが白い歯を見せて笑っていた。
「ひどいな、素通りするなんてさ。そんなに俺変わった?」
「やだそんな真っ黒だから皆に紛れて見えちゃったのよ」
変わっていない。この困ったような笑顔。だけどあたしの方こそ変わっていなければおかしいだろう。中学生の時と同じではまずいではないか。センセイは迷いもせずこの人ごみから、あたし見つけ出した。10年という歳月を感じさせない再会だった。センセイの目の前に立つと、あたしは15歳の少女に時間が後戻りしていく。
「長いフライトで疲れただろ?無理させて悪かったね」
あたしは首を横に振った。
「とりあえず、ホテルに行こうか。リゾートへの島へは朝、水上飛行機が出るから」
「リゾートに行くの?センセイのお家にいくのかと思っていた」
「俺の部屋か…このすぐ隣の島が首都のマーレって島で、そこに小さな家を借りてるんだ。だけど…」
そこに行っちゃ駄目?と聞くと、ベットがないんだよと彼は言った。どんなに狭いベットでだって一緒に眠ろうといって欲しかった。10年ぶりに再会したばかりだというのに、そんな我侭を思う自分に呆れる。その気持ちを察したのか、センセイは申しわけなさそうな口調で言い訳をした。
「ハンモックを部屋にぶら下げて寝てるんだ。毎日がキャンプみたいだろう」
センセイはあたしのスーツケースを持って歩き出した。最初に腕を掴まれた時からずっと、あたし達は手を繋いだままだ。ねぇ、今、ここにあたし達を隔てるものなんて何もないのにね。けれども、離れないようにしっかりと指を絡める。指がほどけたら、夢が覚めるような気がして怖かった。センセイも同じ気持ちなのだろうか。
センセイが隣にいる。時間が経つごとにその現実感があたしの胸を高鳴らせる。
空港から小さな船で数分離れたマーレというセンセイの家がある島に着く。船着場から数分のところに建つホテルに、センセイは連れて行ってくれた。こじんまりとした小さなホテルの部屋。急な予約で、ここしか空いてなくてごめんねと先生は言った。
「小さな部屋ってあたしたちにお似合いじゃない?」
あたしはかえってワクワクした気分で言った。
「じゃあ、ゆっくり眠って。明日朝食の時間に迎えに来るから」
センセイが思ってもみない言葉を口にする。
「え?センセイ帰っちゃうの?」
あたしは泣きそうな顔で振り返った。部屋に着いた安心感で、センセイと手を離してしまっていた。その事に今更気付き、あたしは動揺してしまった。
「明日、朝5時に朝飯食って水上飛行機に乗るんだぞ。今はもう夜中の11時だ」
センセイと一緒だったら眠らなくても構わないのに…子供のように拗ねた顔をしているのが自分でもわかる。一体自分はどうしてしまったのだろう。どうしてセンセイの前だと、こんな子供じみた感情が湧きあがってきてしまうのだろう。
センセイが困った顔で近づいてきた。そして、そっとあたしを抱き締めてきた。
「明日から、ずっと一緒にいられるから…今日、一緒にいたらきっと二人で朝寝坊しちゃうだろ。律子が気に入るような小さな南の島に部屋を取ったんだ。だから今日はすぐに眠って疲れを取って欲しい」
センセイに名前で呼ばれたのは初めてだ。あたしったら馬鹿みたいだ。今更…こんな事で…。
あの頃、制服を着て、男も知らないままにセンセイを誘っていたくせに。なのに、大人の女になった今になって、憧れの人に顔を赤くする少女のように俯いている。
わかったわ。とあたしは素直にセンセイを見上げた。彼の腕の温もりが、あたしの困惑を落ち着かせてくれていた。
ドアまで見送る。センセイはそっとお休みのキスを頬に落としてくれた。
あの頃、手に入らなかった、こんなささいな恋人同士の仕草。想いが溢れ胸が詰まる。だけど、あたしは眠る事など出来なかった。
“またね”
ドアの閉まる音と共に、あの最後の瞬間が蘇ってしまった。
ベットの中で一晩中、鍵もかけずに、そのドアが再び開くのを祈る気持ちで待ちわびた。しんと静まりかえった静寂の中、ドアがノックされる音を耳にして初めて、バカンスが始まる予感に胸がときめきだすのを感じた。
早朝、再び船で飛行場に戻ると、黄色い屋根の水上飛行機に乗り込む。窓から覗く景色は、記憶にあるものだった。
あの南の島の写真集。異なるのは、海に小さく浮かぶ船が、白い軌跡を刻みながら動いている事と、頁をめくらなくても、様々な島を一望できることだろうか。
なんて鮮やかな、青、蒼、碧。
わずか30分程で、目的の島に着いた。ココパームリゾート。これがあたし達の南の島の名前。1周歩いてわずか20分程の小さな楽園。ラグーンヴィラと呼ばれる水上コテージが何棟か桟橋に並んでいる。
あたしはセンセイのシャツの裾をひっぱりながらはしゃいだ。
「センセイ、ほら、あの水に浮かぶお家があるわ」
あの小さな書物部屋での会話と重なる。センセイなんて呼び方を直さなくてはと思いながらも、何て呼んでいいのかわからなかった。売れっ子作家はセンセイと呼ばれる。そんな風に自分に言い訳をしてみる。
案内されたのは、ラグーンヴィラではなく、うっそうとした草花の小道の奥に潜む一戸建てのビーチバンガローだった。
少し褪せた白い壁にとんがった藁葺きの屋根。あたしとセンセイに相応しい、小さな秘密の隠れ家。あの写真集の中に、紛れ込んでしまったようだ。
「水上コテージは律子が落ち着かないかなって思って、ビーチビラにしたんだ。…気に入ったかな?」
センセイ…慣れないよ、こんな幸せ。
どうして、あたしは幸せにその身を任せる事ができないのだろう。癖のように失った時の悲しみが、ひたひたと忍び寄る音がしないかと耳をそばだてる。聞こえるのはただ、ささやかな波の音だ。あたしは安堵の溜め息をついて、センセイを見つめる。
「素敵すぎて、言葉がないわ」
水着に着替えてビーチを歩く。他の木々よりも、一段と高いやしの木が空に向かって手を広げている。涙の滴をかたどった島の先端には、海に溶け込む広いビーチが広がる。
太陽の光を弾いて揺れる透明な海は、まるで地球にはめ込まれた平べったいダイヤモンド。
島を取り囲むホワイトサンドは、あおいゼリーの海にデコレーションされた生クリームのように滑らかで、その表面を悪戯にやどかりが足跡を刻む。
センセイが手を引いてくれる。ゆっくりゆっくり、海に足を踏み入れてみる。怖くなかった。何処までの遠浅の海。膝丈ぐらいの水深が一面に続く。
ねぇ、信じられない。あたし、海の中を歩いているよ。あの夏から10年。一度も泳いだ事なんてなかった。導いてくれる手を見失っていたから。だけど今、あたしはセンセイの手を離して、足元をかすめて泳ぐ魚に手を伸ばす事すら出来る。
見て、蝶々みたいな魚がいるよ。これでは初めて波打ち際ではしゃぐ、よちよち歩きの子供と同じだ。ママの手を振り払って、未知の世界に瞳を輝かせている。
随分とそんな風に時間を過ごした頃、センセイが安心したように聞いてきた。
「ちょっとだけ一人でも大丈夫?あそこのドロップオフを探検してくるよ」
センセイが50mほど先の、色が濃くなっている海を指差した。聞かなくても、あそこから水深が深くなっている事が伺える。一緒に行く事は出来なかった。ここは足元が見渡せるから大丈夫なのだ。
あの色は境界線だ。
あたしの心の病の…。
センセイには微笑んで待っているねと言った。ゴーグルをはめると、彼は水飛沫を上げて泳ぎだした。
ドクンっ
不安がよぎる。手の届かない場所に遠のいていくセンセイに。
あたしは海から出ると砂浜に寝転んだ。こんな場所でこんな気持ちを抱える自分に嫌気がさす。砂に投げ出した手の甲の下が、もぞもぞと動いた。びっくりして手をどかすと、目の前の砂がもこもこと盛り上がり、今、砂浜から産み落とされたような白い小さな蟹が、そっと顔を覗かせた。
目が合った気がした。アンタ重いんだよって、悪態をつかれているようだ。心に忍び寄ったもやもやが一瞬にして吹き飛ぶ。
あたし、笑ってる。可笑しくて、クスクスと小さな笑いが止まらない。
自分を受け入れよう。失う予感に怯える心をいつも持ち歩く自分を…。だけど、ほら、この島はあたしを守ってくれる。あったかいお日様で心を暖めてくれる。海に足を踏み入れられたではないか。奇跡が起きたのだ。
時間を掛けて洗い流せばいい。ドロップオフに行けなくても、憩いの浅瀬で心を癒せばいいのだ。泳ぎ疲れれば、センセイとあの小さなコテージでお昼寝をしよう。この島には二人で帰る場所さえある。
初めてのふたりの夜が訪れる。まだセンセイとは唇さえ合わせてはいなかった。昨夜別れ際に、お休みのキスが頬をかすめただけだ。
サンセットのビーチで奔放に愛を語り合う島のゲストの中で、あたし達は一番控えめなカップルだった。手を重ね、ビーチにお行儀良く並んで空が赤く染まっていく様を眺める。
あたしはなんて欲が深い女なのか。穏やかに心が満たされた次の瞬間には、激しく求められたいなんて渇望している。
ねぇ、あたしもう15歳じゃないの。たいていの事はお勉強済みよ。
あの頃のあたしなら、そんな誘い文句を口にして、自らブラウスのボタンをひとつづつ外してみせるだろう。なのに、25歳のあたしは、まるで処女のように体を固くして、繋がれた指先の温度に汗をかいている。
彼の次の行動を、頭の中で反芻してはただひたすらに待ちわびる。
求められたかった。
ずっとセンセイを縛りつけていた足枷が、外れる瞬間を確かめたかった。
夕食の後、部屋に戻ると、ベットがシーツの皺で描かれる波の模様で飾りたてられていた。バスルームに消えたセンセイを、その上で待ちわびる。ひんやりとした肌心地が気持ち良かった。飛行機に揺られ、昨日のホテルでは一睡もしていない。しかも、南国の陽射しを浴びながら、子供のように一日中、波と戯れた。こんな特別な夜に、あたしはどうかしている。眠いだなんて…
あぁ、夕食の時ワインなんて飲まなければ良かった。そんな後悔がゆっくりと遠のいていった。
…優しい手の感触。
知っている。この大きな手を…
パパ。
子供の頃いつも、パパの膝の上に乗って本を読んでってせがんでいた。また、この本?お姫様のお話は他にも沢山あるのに。これがいいのと、ほっぺを膨らませる。パパは苦笑いしながら絵本を開く。
人魚姫。最後に想いが届かず海の泡になってしまう悲しい物語。お決まりのハッピーエンドではない事が、子供心に話をリアルに感じさせた。絵本の挿絵の人魚のヒレが七色に光っていて、自分もこんな姿になって泳いでみたら、どんなに素敵だろうと胸を高鳴らせた。
パパは魔女が出てくる場面になると、いつもあたしの頭を撫でた。怖がっているだろうと思いやってくれていたのだろう。
パパの手の温もり。
あたしの宝物だった。
…遠くで波の音が聞こえる。気持ちのいい空気。薄く瞼を開くと、センセイと目が合った。優しい顔で、あたしの髪を撫でている。
まさか
まさか
この明るさは、朝ではないか。あたし…あのまま眠ってしまった?ぼんやりとした頭で、昨夜の記憶を辿る。ベッドで先生を待っていたところまでしか覚えはなかった。
なんて女だろう。初めての夜に眠りこけるだなんて。
センセイはするりとベッドから抜け出すと、ぺたぺたと床の上を歩いて行って、ドアの外を覗いている。
「すっごいいい天気」
振り返った笑顔に、何も言えなかった…
この島には、5泊する予定だ。深呼吸をして自分を落ち着かせる。また夜は巡ってくるのだ…
だけど、パパの夢なんて見たのはいつ以来だろう。あの事故以来、夢に出てくるパパは暗い海の影にぼやけていて、はっきりした姿でなんて見たことはなかった。優しい気持ちに包まれてパパの姿を見たのは、事故の時、海面から顔を出したパパが笑いかけてくれたあの瞬間が最後だった。夢の中でパパは笑っていた。この島で心の闇に光が差し込んでから、夢まで輝きだした気がした。
朝食の席でセンセイは、今日はお楽しみがあるからねと言った。昨夜の失態で、少しテンションの低かった気分が急上昇する。
内緒ってセンセイはもったいつけた。教えてよってあたしはおねだりしてみせた。
あ…前にも同じ場面があった。そう、センセイの夢って何?って尋ねた時だ。
あの時、センセイは物書きしながら南の島に暮らすのが夢だって言っていた。センセイは自分の力で夢を掴んだ。じゃあ、あたしは?あたしの夢って何だろう…
ウェイターが紅茶を運んでくる。ミルクをたっぷりと注がれる。センセイのカップにもと、ウェイターがミルクを傾けた時、センセイは「クダ」と口にした。ウェイターは少し驚いた顔をして、にやりと笑った。あたしの知らない南国の言葉で、二人は会話を始めた。不思議な気持ちでそれを眺める。
「ミルク入れてもらう時、何て言ったの?」
「クダは少しって意味」
センセイの講義が始まった。
ワラ リーティ ドゥエヘ(こんにちは)
シュークリア(ありがとう)
ランガルッタ?(元気ですか)
ランガル(元気です)
バラーバル(最高)
先生が口にする言葉はどれも不思議な響きを添えて、潮風に乗ってあたしの耳に届く。皿を片付けながらウェイターは、微笑みながらあたし達を眺めている。
「ロビベ」
真っすぐあたしを見つめながらセンセイはもう一度繰り返して言った。
「ロビベ」
その言葉にウェイターは大げさに驚いた顔をしてみせる。何て意味?と尋ねると、センセイは人指し指を口元に寄せると、ウェイター向かって内緒だよという仕草をした。怪訝な顔でウェイターを見上げると、同じ仕草をしてとぼけている。男同士は同盟を組んだらしい。
まだ二日目だというのに、あたし達は友達のようにホテルのスタッフに溶け込んでいる。くだけた日本語で陽気に挨拶してくる者もいる。Tシャツを着たマリンスタッフが、親しげにセンセイに話しかけてきた。冷やかしたような視線であたしに挨拶をすると、自分の名をハッサンだと告げてきた。そして、しばらくセンセイの耳元でぼそぼそと何か呟いている。センセイは親指を立てて、嬉しそうにバラーバルと言った。
あ、さっき教えてもらった言葉だ。バラーバル…最高。
ハッサンが席を離れて行ってから、センセイに尋ねた。
「何が最高なの?」
センセイは、早速復習をしてみせたあたしに、満足そうに微笑みながら答えた。
「他の島でマリンスタッフをしている彼の友達が、午後からここのビーチでパラセイリングをやるんだって。
普段この島ではやらないオプションなんだけど…内輪で遊びでやるらしい。タダでいいから一回やってみないかって」
「随分親切なのね」
「奴の実家、俺のご近所さんなんだ。今回このリゾートも急だったけどあいつが手配してくれた」
「あら、お礼をいいそびれちゃったわ」
「休暇で奴が帰ってきたら、日本語講座を一ヶ月してやるって交換条件だ」
ここの人達は本当に親日だ。アジア人同士という親しみもあるのだろうか。
午後、のんびりと木陰でくつろいだ後、センセイはパラセイリングを楽しんだ。あたしは首を横に振って遠慮した。センセイを繋げたボートは、勢いよく海をすべり、パラセイルはぐんぐんとのぼっていく。
青い空のキャンバスに、鮮やかな赤いパラソルがぽつりと描かれているようだ。浮かび上がった空から見下ろす情景は、素晴らしいものに違いない。
楽園とはこういう場所を言うのだろう。2日前まで、日本にいた事が信じられない。いや、こんな場所で、センセイを待っている自分が信じられない。愛しい人は、あの抜けるような青空に浮かんでいて、もう少ししたら、瞳を輝かせながらあたしの元に帰ってくるなんて。
そしてあたしは、半身を海の水に浸かり座りながら、白い魚と戯れている。光を閉じ込めた南国の海で跳ね上がる魚たちは、幸福の滴をあたしに振り掛ける。
その時だった。
突風が吹いたのだ。春一番のような季節風が突然、ゴウっと島を吹き抜けた。センセイのパラセイリングが、失速してストンと海に落ちていくのが目に映る。まるでネジが止まったおもちゃのように動きを止めてストンと落ちた。そこは、丁度ドロップオフと浅瀬の境…あの境界線だった。
濃いブルーに色が変わっているところは水深があるのだろうけれども、もし落ちたのがその手前だったら…潮が引き始めた浅瀬には、所々岩らしき塊もその姿をのぞかせていた。
ドクンッ
止まったモーターボートから、ハッサンが慌てた様子で海に飛び込む姿が見える。
ドクンッ
センセイが落ちた辺りの海面が、遠目に赤く染まって見えた。
朝のセンセイとのやり取りが浮かぶ。
“お楽しみがあるからね”
やっぱり無理なんだ。期待なんてしちゃいけない。
だってほら、夢に手を伸ばしたら…幸せがすり抜ける音がするよ。