人魚の海(ココパーム)
センセイは色々な事を教えてくれた。
男が女を意識したときに、変わる瞳の色合いも。
愛しい男の唇から香るタバコは、味わうことが出来るのだという事も。
年の差 先生 禁断
モルディブ ココパーム 小説
ゆらり。
よどんだ水の渦が太陽の光を濁らせている。
落ちる
落ちる
ゆっくりと、水の泡に包まれて、人魚姫は最後に何を思ったのだろう。
貴方ヲ助ケタノハ私ナノデス
魔女に奪われた美しい声は、真実を語れない。
愛シテル…
声など耳に届かずとも、恋に潤んだ瞳がそう物語っていただろうに。
王子は違う女の手を取って囁いた。
『貴女が私を救ったのですね』
馬鹿な男…。こんな男にどんな価値が?
水底に沈む前に、この身体は海の泡に変わるのだろうか。
ごぼっ
肺に残った酸素が、シャボン玉のように揺らめきながらのぼっていく。
ねぇ、あたしはね、海の泡になんてなりたくはない。
最後に見えたのは、雨雲のような水面。意識が途切れる瞬間に、その切れ間から金色の陽ざしが見えたのは神様の悪戯だろうか。
死人を救う蜘蛛の糸のようにきらめきながらゆっくりと、それはあたしの体に垂れてきた…
人魚の海(ココパーム)
「…っ…律ちゃんっ」
薄く目を開くと、見慣れた男が慌てた様子で覗き込んでいる。
手のひらを額に添えると、冷たい汗が指先を濡らした。
「すっげぇ、うなされていたぜ。大丈夫?水を持ってこようか」
乾ききった唇は、痺れて上手く動かなかった。お願い。あたしは頷いて、そう視線で訴える。
淳一の後ろ姿を見送りながら、深く息を吸う。あぁ、久しぶりにあの夢を見た。アノヒトの写真を昼間、目にしたせいだろうか。
ミネラルウォーターのボトルを抱えて、淳一が戻ってきた。…この2リットルのボトルのまま、らっぱ飲みをしろというのだろうか。いつもは気が利く奴だけに、動揺しているのがわかる。
両手で持ち上げて、ゴボゴボと豪快に喉を潤していく。口からこぼれた滴が、キャミソールを濡らした。
「…ありがと。落ち着いたわ」
「怖い夢でも見てたの?」
「…よく…覚えてない」
「落ち着いた?」
「ええ、もう平気」
夢の説明なんてするつもりもない。ベッドサイドにペットボトルを置くと、あたしはベットにごろんと寝そべった。部屋の中は薄暗さは、それでも夜が明けている事を伺わせる。時計はAM5:00を知らせていた。
いたわるように淳一は、あたしの髪を撫でた。
「冷たくないか?胸、濡れちゃってる」
木成りのキャミソールが、水に濡れて素肌を透かして見せている。じっとそこを見つめる淳一の視線が、熱を帯びていた。
「ふふっ。いやぁね朝っぱらから」
だってさぁ…と淳一は、あたしの身体を引き寄せた。
「これが最後なんてやっぱり嫌だな。なぁ、俺、確かに来週結婚するけどさ、たまには会ってよ。律っちゃんがいないと寂しいなぁ」
「駄目」
「律っちゃんだって寂しいんじゃないの?俺が結婚する夢をみてうなされてたんだろ?」
「馬鹿ねぇ」
こういう時の男って、まるでおもちゃを取り上げられた子供みたいだ。
両手一杯に、お気に入りの玩具を抱えていなければ物足りないのだろうか。
「人の物には手を出さない主義なの」
「今だって彼女もちだぜ」
「恋人の立場で相手をモノにしたなんて甘いわよ」
「あんまり、変わらないけどなぁ。彼女と同棲して長いしさ」
「紙キレ一枚なんて言うけれど、結婚は契約よ。ちゃんとサインしてお国に申請するでしょ?」
淳一の首に腕を絡めながら、そうそっけなく言い放つ。だけど彼を誘惑する仕草は、言葉と全く正反対で…夜明けのベッドでお互いの温もりをむさぼり合う。名残惜しむ想いは、ベッドルームの湿度を重くする。
貴方、悪くなかったわよ。淳一クン。
心の中でそっと呟いてみる。
最後の恋だとでも思いたいのだろうか、結婚していく男って、あたしをまるでお姫様のように扱ったりする。フィアンセは自分が主役の結婚式の準備しか頭にないらしく、決めなければいけない事柄に夢中で、未来の旦那様は眼中にないらしい。
『アイツ、しっかりしてよが口癖になっちまってさ、俺、もううんざり』
だからと言って、男共は走り出したカウントダウンをストップさせる度胸もない。だから、あたしのような、結婚願望を匂わせない女に跪くのだ。独身最後のラストダンスを僕と踊ってくださいと。でも、そういう男は後腐れはないし、意外と穴場だ。
ねぇ、そんな顔してみせても、本当は幸せで一杯でしょう?あたし、溢れてこぼれた幸せを、ほんの少しお裾分けしてもらっているだけなのよ。
あたしは幸せが苦手。満たされるような想いが苦手。
ほら、よく恋に溺れるって言うじゃない?昔、海に溺れた記憶で、水が怖いように、あたしは恋にも同じ恐怖感を持つ。
15歳の時に、溺れるような恋をした。そのトラウマだろうか。誰からも認められない恋だったから?
だけど、今日、歯車は再び動き出したのだ。アノヒトはあたしを忘れていなかった。あんなにも克明にあの頃を描写できるんですもの。こういうの、私小説って言うのよね?
タイトルも素敵だった
『人魚の海』
ねぇ、あたし確かに受け取ったわ。失ったものを再び抱き締めたのよ。でも、あの頃ほど初心じゃない。他の男の腕に抱かれながら貴方に想いをはせるなんてね。
10年は女を変える。だけど、あの頃のあたし程、残酷な女はいなかったかもしれない。
玄関先で、淳一を見送る。
「さようなら、お幸せにね」
淳一は、名残惜しむように唇を押し付けてきた。彼にとっては結婚前のこのアバンチュールは、人生で一番ドラマティックな出来事なのかもしれない。最後の山場を更に盛り上げようとする彼をなだめて、ゆっくりとドアを閉じる。
ちょっとそっけなかったかしら?だけど、あたしはこれから迎える新しいドラマへの幕開けに忙しいのだ。
バックの中から1冊のハードブックを取り出す。青色の表紙を開く指先がほんの少しだけ震えた。本の帯には有名な文芸賞の受賞作と書かれてあった。
日本の文芸本なんてあまり読む方ではなかった。翻訳家という仕事柄、勉強も兼ねて洋書のペーパーバックばかり読んでいた。だけど、仕事の資料探しに本屋に立ち寄った昨日、レジのすぐ脇にこの本のポスターが張られていた。右下に刷り込まれた作家の写真に、心臓が高鳴った。
センセイ…
作家の名前は目にしたことのある名前だった。だけどその名とあたしの知っている彼の名は全く一致していなかった。ぼんやりと回らない頭の中で、ペンネームというもなのだと理解していた。
自分が買わなくてはいけない本を手にもせず、ポスターと同じデザインの、青いハードブックに手を伸ばした。そして、本屋の向かいにあるカフェで、一気にそれを読みふけった。
夜が明けて、再びこの本に触れる。ぱらりと表紙をめくると、白黒の彼の写真があった。色彩のない海の前で、遠くを眺める寛いだ横顔。
下に小さく『南国の楽園にて』と書かれていた。
この海が持つべき色彩をあたしは知っている。だって、あの時、センセイは教えてくれたから。
そう、センセイは色々な事を教えてくれた。
男が女を意識したときに、変わる瞳の色合いも。愛しい男の唇から香るタバコは、舌で味わうことが出来るのだという事も。
もう一枚ページをめくる。小説の書き出しはこうだ。
“彼女は水を恐れた人魚だった”
あぁ、彼ほどあたしを理解し、深く愛してくれた男がいただろうか。彼という海で、あたしは自由に解き放たれたのだ。10歳の年の差なんて、25歳の今となっては何の障害にもならない。だけど15歳のあの時は違ったのだ。中学3年生と国語の教師という関係も、背徳の香りを漂わせていた。
センセイ。
あたし達、確かに愛し合っていた。快楽を知っている男は純愛に溺れ、男に無知な少女は欲情という感覚を覚え始めた。
何という危ういバランス。だけど何もかもが密やかで、魅惑に満ちていた。
15歳にしてあたしは、知り尽くしてしまった。心に棲み付いた男を、授業中にぼんやりと鉛筆を甘噛しながら想いをはせるもどかしさ。鉛筆に付けられていく歯の跡は、センセイがあたしの心に刻み込んでいく足跡のように感じられた。
彼の前で奔放に振る舞う少女は、この上なく残酷だった事だろう。未熟なあたしにとって世界は、自分と彼だけしか居なかった。彼の苦悩を、くすくすとほそ笑んで眺めてさえいた。
ねぇ、どうしてそんなに深刻なの?
あたし達、ただ愛し合っているだけなのに。
あの時、今のあたしと同じ25歳のセンセイは、生徒から慕われる存在だった。水泳部の顧問も兼ねていたセンセイが、よく男子とプールで水飛沫を跳ねあげながらふざけて笑っているのを、2階の教室の窓から眺めていた。どっちが子供なのか、わからないわ…。無邪気な様子は微笑ましかった。
同じ年の男子の子供っぽさには嫌悪感すら抱くのに、大人の男の屈託のない様子には胸を弾かれるなんて不思議だと思った。
男について何も知らない無知なあたしが、どうしてあんな視点で彼を探し出すことが出来たのだろう。同じ年の子は皆、制服越しの恋に夢中だった。だけどあの頃、既にあたしはプールの中で自在に泳ぐセンセイの素肌の温度に興味を持っていた。
初夏の夕日を吸い込んだ、陽に色付き始めた肌。あの身体に指を伸ばしたら、どんな感触が伝わってくるのだろう。
水泳部員が帰った後も、彼はプールで伸び伸びと、自由自在に泳いでいた。そんなセンセイを窓越しに眺めて数週間が経った頃、おもむろに彼はこちらを振り返ると、あたしに向かって手を振ったのだ。いや、手招きをした。気付かれていた事に動揺したが、気付いて欲しいとも切望していた。
あたしは素直に帰り支度をすると、プールの脇にあるフェンスに向かった。今日は期末テストの最中だから、部活動は休みでプールには先生しかいない。プールサイドには怖くて近寄れなかった。だから、フェンス越しにセンセイが跳ねあげる水飛沫を眺めていた。あたしの姿を認めると、センセイはプールから上がってきた。ポタポタと顎から滴を落としながら、笑顔であたしに近づいてきた。
「3年5組の兵藤律子さんだよね。いつも、プール見ているでしょう?水泳興味ある?」
センセイがあたしを見ている。センセイが受け持つ国語のクラスは偶数クラスだ。だから一度も彼が教壇に立っている姿を見たことはなかった。彼と見つめ合っているひと時に、満足しながらあたしは答えた。
「小さい頃から、小五まで、世田谷のスイミングスクールに通っていました」
「小五まで?最近は泳いでいないの?」
「海で溺れてから、水に近づけなくなったんです」
体育の時間水泳はいつも見学していた。
小学部の頃からのエスカレーター式なので、あの事故を知っている同級生達は皆、あたしが泳げない理由を黙認していた。センセイは他の学校から春に赴任してきたばかりだ。体育の受け持ちではないし、知らなくて当然だろう。
「…そっか、怖い思いをしたんだね。でも、少し泳いでみたいって気持ちもあるのかな?いつもプール見てたでしょ?」
「プールにじゃなく、センセイに興味があるんです」
彼はきょとんとした顔をした。
フェンスを掴む彼の指に、そっと反対側から触れてみる。それはひんやりと冷たく、湿気を含んだ皮膚はあたしの指先にぴったりと吸いついた。
あたしは真剣な眼差しで彼を見つめた。だけど口元はきっと笑いを噛み殺すかのように上がっているのがわかる。彼とこうしていることが、楽しくて仕方がなかった。
唖然と言葉も出ないセンセイに小さく会釈をすると、あたしはフェンスの脇を通り過ぎて行った。金網に絡んだ紫色の朝顔が目に入る。これから夏の間、繰り返し花を咲かせるのだろう。
センセイとあたしを隔てるフェンスの全てに、そのツタが絡まれば素敵なのに。そんな他愛のない思いつきは、あたしの足どりを軽くした。
あたしはいつもの窓からセンセイを眺めることを止めた。図書室の隣にある、古い書物が収納されている倉庫の窓の隙間から彼を眺めた。
いつもは誰も足を踏み入れない、小さな書物部屋。窓際に置かれた一組の椅子と机は、あたしを歓迎してくれているように思わせる。センセイの視線がチラチラと、2階のあたしの教室の方に注がれるのを、違う角度からそっと盗み見る。くすくすと込み上げる笑いを抑えながら、男の仕草を愛しく思う。
あたしの不在に胸を撫で下ろしているのか、落胆を感じているのか。セイセイの心が迷子のように、うろうろしているのが見て取れた。
2学期の終業式のあと、惰性のようにその小さな部屋に足を踏み入れる。プールに人気はなくて、手持ちぶさたに与謝野晶子の短歌集など手に取ってみた。
ガラッ
開いた扉から入ってきたのはセンセイだった。偶然か、いや、ばれていたのか。この古いテーブルの上にソーダ水でも置いてあれば、まるで喫茶店での待ち合わせ。あたしは、お行儀悪く机に腰かけると、先生に見向きもせず、開いた本に視線を落とした。
いつの間にか窓際に歩いてきたセンセイが、あたしの視線をなぞるかのように本の短歌を読み上げる。
“みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしていませの君ゆりおこす”
「みだれ髪を綺麗に結い直して、朝寝しているあなたを揺り起こすって意味なんだ。
戦争の影に包まれた暗い時代に、自由な恋愛すら罪だという風潮だった。
しかも、まだまだ女性が差別をされ、貞淑を求められたその頃に、彼女は高らかに自分の想いを歌いあげたんだ」
きっと授業中のセンセイのいつもの声は、教室の端にまで燐と響き渡るのだろう。
だけど…2人きりの秘密の授業では、内緒話のように彼の言葉はそっとあたしの耳に吹きつけられた。
「自由になるのが困難な時代だったんですね」
あたしの台詞に小さくセンセイは頷いた。
「あたしも、困難を乗り越えて自由になりたいです。センセイ、一日だけプールでコーチをお願いできませんか?」
「…無理してない?」
心配そうな彼の眼差し。あたしは無邪気に笑って見せた。
「センセイがいてくれたら、怖くない気がするの」
プールに誰もいない日にして欲しいと頼むと、先生は日曜日の午後ならと言った。水着を一着も持っていなかったので、渋谷のデパートに買いに行く。最後に水着を買ったのはいつだろう。子供用の水着売場で、気に入ったものが見つからず、随分と時間をかけて探した昔の記憶がふとよぎる。
中学3年生。クラスの中でも背は高い方だ。大人の水着売り場で色とりどりの布地を眺めるのは楽しい時間だった。だけども、結局買ったのは、競泳用のシンプルな黒の水着。学校のプールでビキニは頂けない。着飾る必要などないのだと悟った。ありのままのあたしを見て欲しかった。
日曜日は、近づく台風の影響で曇り空だった。夏休みだが、制服を着て学校に向かう。センセイは既に水着に着がえ、プールサイドで準備運動をしていた。朝顔のつたが絡まったフェンスの前で、あたしは立ち尽くしていた。先生はあたしに気付くとこちらに歩いてきた。そしてプールの隣にある女子更衣室で着替えてくるようにと言った。キィッと音を立てて、彼はフェンスの扉を開けてくれた。
気付くはずもない。あたしの心が既に葛藤を始めているなんて。あれ以来、プールサイドに足を踏み入れた事すらなかった。プールの授業の時は、見学せずに図書室で自習している事を許されていた。診断書を学校に提出していたからだ。
一歩踏み出さなくては。センセイに言ったではないか。困難を乗り越えて自由になりたいのだと。あの腕に近づく為に…あたしは恐る恐る足を踏み出した。
プールサイドを横切り、更衣室の扉に向かう。真っすぐ歩いているのに、体がプールに向かって傾いている錯覚に冷や汗が出る。すぐ脇にある巨大な水溜まりが、あたしを飲み込もうとしているような気がして足がすくんだ。
ダイジョウブ
そう自分に言い聞かせる。
センセイガ助ケテクレルカラ…
着がえを済ませ、深呼吸をすると更衣室のドアに手を掛ける。扉を開けると、先生だけを見つめて歩き出した。軽く柔軟体操をしながら、あたしは言った。
「センセイ、あたしプール入るの4年ぶりなの。50m泳げたら…ご褒美頂戴?」
困った顔で彼は笑った。
「そんなに久しぶりなら25mでも上出来だな」
飛び込み台に上がる。空の色を映して、プールはどんよりと濁って見えた。センセイは25m向こうの逆サイドであたしを待った。足元に広がる水を眺めずに、ただ目標に向かって渡るだけなのだと自分自身に繰り返す。
そして、あたしは飛び込んだ。ご褒美を貰うために。
ザブンッ
コポコポと、炭酸の泡が弾けるような音が耳もとで響く。コップに放り込まれた氷のように気泡があたしを溶かし始める。
早く逃げ出さなくては…
早く…早く…
水を掻き分ける飛沫が、体全体を包み込む。
怖かった。
自分の荒い呼吸が聞こえる。水の中での独特の音響が、あたしの鼓膜を揺らしていた。
けれども、身体は忘れていない。そう、これがクロールのリズムだ。ベビーからはじめて10年間、スイミングスクールに通った。あの事故のほんの数週間前には、全国ジュニアの大会で、記録を出したくらいだったのだ。逃れるように泳いだ。何もかも振り切るように。
壁に手が付く感触。
「兵藤クン、すごいっ。水が怖いなんて冗談きついよ。このタイムなら……」
センセイの声が遠のいていく。足を付こうとしたら、プールの底が滑った。仰向けにバランスを崩して水の中に沈み込む。
ゴボッ
その音を聞いた途端、体が金縛りにあったように動かなくなった。先生の姿も、空を覆う雲のような水面に紛れていった。
ほら…、待っていたんだよ。
水の中からそんな声が聞こえてくる。
もう離さない。
身体を包む水が、粘り気のある液体のように絡み付いてくる感触。
落ちる…落ちるよ…
終わりのない水底へ
その時、力強い腕に身体を抱えられた。水の中では、瞳に入る込んだプールの塩素も、飲み込んだ水も不快を感じる感覚が失せていたのに、ザバッと引き上げられた途端に、激しく咳き込んだ。空気がある場所に逃れてきたというのに、コレではまるで陸に上げられた魚ではないか。パクパクと口をあけても、酸素が入り込まない呼吸に苦しんでいるなんて。
「兵藤っ!」
センセイの叫ぶ声が聞こえる。横たえられたアスファルトの上で、あたしは大丈夫だからと、力なく手を上げて応えてみせる。
一瞬…何が起きたのかわからなかった。センセイの唇があたしの口を覆っていた。細くなった気道が、膨らむ感覚。2.3回繰り返されたところで、ゴボッと水を吐いた。
「センセイ…」
そう声をあげたあたしを、心底安堵した様子で彼は覗き込んできた。
両手をさし伸ばすと、センセイの首に指を絡める。そっと起き上がりながら、その耳元に唇を寄せて、小さくあたしは囁いた。
「もう一回キスして…ファーストキスなんだから、ちゃんとしたヤツもう一回してよ…ご褒美くれるって約束したでしょ?」
センセイは呆気に取られた顔で、お前なぁ…って呟くと、怒ったように唇を重ねてきた。怒りって感情は、男の理性を弾き飛ばすのだろうか。吸い上げられるような濃厚な口付け。長い時間を掛けて、あたしは先生の唇から香る煙草の匂いを舌で味わった。
真っ黒な空から、雨粒が落ちてきた。
センセイ…ずっと、こうなりたかった。溜息の隙間に甘い言葉を挟みこむ。
センセイは土砂降りの雨の中、あたしを立ち上がらせると女子更衣室の中に一緒に入っていった。そして、ゆっくりと手を引いて、木で作られたベンチに腰掛けさせてくれた。
指先が痺れて、思うように動かない。夏だというのに寒さで身体は震えていた。
「手伝って、上手く出来ない」
センセイは、棚に掛けておいたあたしのタオルを手にすると、ゆっくりと髪を拭いてくれた。じゃあ、先生も隣の部屋で着がえてくるからと、椅子から立ち上がろうとする彼の腕を掴んだ。
「もうちょっといて。ブラウスのボタン手が痺れてて、これじゃあ上手く掛けられないから」
センセイは水着を脱ぎ始めたあたしに驚いて、後ろを向いた。かさかさと衣擦れの音が雨の音に混じってコンクリートの部屋の中で響く。センセイが息を殺している気配が伝わってきた。
「じゃあ、ボタンお願いします」
向き合ったものの、こちらに視線を向けないで、センセイは手探りであたしのボタンを掛け始めた。
さっき、キスしたのにね。不思議な気持ちで彼の仕草を見詰める。
「さっき、助けるの遅れてすまなかった。最初、ふざけているのかと思ったんだ」
申し訳なさそうにセンセイは、櫛であたしの髪を梳き始めた。絡んだ髪を丁寧に丁寧に、センセイは梳かしてくれる。一緒におままごとでもしている気分だ。不思議な安堵感があたしを包んでいた。
全ての支度が整うと、彼は独り言のようにポツリと言った。
「罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ」
センセイの台詞にあたしは苦笑いをした。
あの、詩集の短歌だった。誰に断わりもせず持ち出したあの本を、繰り返し眺めていたのですぐに理解できた。
優秀な生徒である事をを証明する為に、この与謝野晶子の短歌を現代の言葉で口にしてみせた。
「罪多き男たちを懲らしめる為に、私は肌も髪も美しく作られた」
あの頃のセンセイは、いつも少し困ったような悲しい顔をしていた。小さな書物部屋で、秘密の授業は何度となく繰り返された。ほんの一瞬を除けば、ごく、まじめな課外授業。ただ変わらず教科書は、少々情熱的なあの女流作家の短歌集ではあったが。閉鎖的な時代に、奔放に男と女の情事を歌いあげ、非難されながらも、崇拝された短歌の数々。内緒ごとのようにこの密室で、読み合うひと時は官能的だった。
“やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君” (熱くほてった肌に触れないで人生を説くばかりで寂しいでしょう)
まるであたし達の関係を代弁しているような歌だ。でも、寂しくなんてない。センセイは慎重なだけなのだ。あたしがまだ15歳の少女だから…。二人は体を重ねる事なく、それでも震えるような時間を積み上げていった。
彼から仕掛けてきたキスはあの一度きり。たまに、悪戯にあたしが彼の唇を盗むだけ。そっと唇を近づけると、彼は体を固くしてキスを受けた。まるであたしが襲っているみたい。そんな状況に笑いを噛み殺す。口づけの予感に、そっと瞼を閉じる彼が可愛らしい。期待と不安と背徳感で、センセイの睫毛はいつもふるふると震えていた。
時々、試すように誘うように制服のブラウスのボタンをひとつ余分に外してみたり、スカートの裾を無造作に乱して足を組んで机に座ってみせたりする。そんな時、いつも困惑を瞳に浮かべながら、センセイは乱れた部分を整えてくれた。
ブラウスのボタンを掛けるときに、ひんやりとした指があたしの鎖骨をくすぐる。膝に絡まったスカートの皺をピンと伸ばすときに、熱を孕んだ手の甲がふくらはぎをかすめる。
「ねぇ…あたし、いつだってセンセイのものよ」
あたしのずり落ちた靴下を引き上げるために、跪く彼のつむじに向かって、そんな言葉を落とす。彼は許しを乞う眼差してこちらを見上げる。
センセイ…
あたしは別にお姫様になりたいわけじゃない。大人と同じように愛し合えないから、こんなふうにひっそりと、気持ちを確かめ合っているだけなのだ。
「センセイはあたしくらいの頃、夢とかあった?」
おもむろにそう尋ねたあたしに彼はしばらく黙り込んだ。
「センセイになるのが夢だったの?」
彼は苦笑いしながら首を横に振った。
「学生の頃、憧れていたものってないんだよね、今更にはあるんだけどね。…教師は向いてないな…こんないけない先生だしさ」
「今更の、センセイの夢ってなあに?」
内緒ってセンセイはもったいつけた。教えてよってあたしはおねだりしてみせた。
「こんな大人になった今になって子供みたいな夢だよ。俺、小説家になりたいんだ」
照れたようにはにかんだ顔。夢を語る少年の眼差しに胸をつまみあげられる。
「それでさ、物書きしながらのんびりと南の島とかで暮らしたいな…世捨て人みたいだろ」
センセイは思い出したように、抱えていた荷物の間から、一冊の写真集を差し出した。
ほら、これが南の島。センセイが差し出した本をぱらぱらとめくる。
学校の敷地ほどの砂浜の上に点在する小さなバンガロー。それぞれの島の形は、月のように丸かったり半円だったり切り取った爪みたいだったり。ビーチからは何本かの桟橋が海の上に伸びていて、その先っぽに花びらのように広がったバンガローを抱いている島もあった。
「海の上にお家があるよ」
「きっと枕の下から波の音がするんだろうな」
「センセイ、ここに泊まったことあるの?」
「ないよ。この前イトコががハネムーンで行って来てさ、お土産にこの写真集をくれたんだ」
「モルディブって書いてある…これって島の名前?」
「島の名前はさ、ほら、写真の下に書いてあるよ。色んな名前があるね。こういう島が沢山集まってモルディブという国になっているんだ」
「…センセイ」
「何だい?」
授業中の生徒のように、お行儀良く質問を投げかける。
「こんな誰も知らないような小さな島でだったら、一緒に眠ってくれる?」
ゆっくりと彼は本から視線をあたしに移した。
そして優しい声色で「そうだね」と囁いた。
あ、センセイがキスしてくれる…窓から差し込む夕日に縁取られた影があたしに覆い被さろうとしていた。…その時だった
がらっ
開いた扉から、あたしたちの秘密の空気が溶けて流されていった。
「…早瀬先生、なになさっているんですかっ」
保険室の女の先生が、青い顔をして立っていた。彼女は漏れ出した秘密を隠すかのように、そっと扉を閉めた。そして、怒りをあらわにした足どりでつかつかとこちらに歩み寄ってくる。
「この子から離れてください」