何が俺から擦り抜けていったんだろう?
永遠の愛?
それとも
ひと時の情熱?
隣のMy Man (ミリヒ)
マンションの庭先で真夜中、タバコに火を付けた時だった。
「ねぇ、タバコきらしちゃったのよ、一本貰えない?」
隣室との境界、
「びっくりした」
お互いにリビングの明かりを落としてあるので、
しかも俺より先に隣人は庭にいたに違いない。
中目黒にある2LDKの小さな庭付のマ
気配は感じることはあった。
難しいジャズのスィングを流暢にボーカルとデュエットするように
その声の主なのだろう、この女が。
「メンソールだけどいい?」
「あら、もちろん」
垣根の一番大きな穴にタバコの箱を握りしめたまま手を突っ込んだ
すっと箱が取り上げられて、数秒後にまた手のひらに乗せられる。
「火も貸してくれる?」
ライターを持ち直して、さっきと同じ穴に手を突っ込む。
ひんやりとした指が俺の手に添えられて、
派手なパーマ。長い睫毛。
ジジッとタバコの先っぽに火をうつすと、
「指、焦げちゃうよ?」
いつまでもぼんやりと火を付けっぱなしの俺に、女はそう言った。
「え?熱っ」
馬鹿みたいだ。何やってんだ俺。
慌てて垣根から手を引っ込める。
まるでこの女を照らすために火を付けてたみたいじゃないか。
「ありがとね」
さっきの呆れたみたいな声色と違う、
「奥さんは寝ちゃったの?」
「いや、会社の飲み会で遅くなるって…」
こんな夜中、
そうだ、雛子は随分と遅すぎる。終電は終わっている時間だ。
タクシーで帰るならその前に電話の一本もしてこないなんて、
「ウチのも似たようなもんよ」
ウチのも‥結婚してるんだ?
驚く事でもないけれど、
自由奔放
そんな印象を最初に感じたからだろうか。
「最近越してきたでしょう?新婚さん?」
「いや、もう結婚して2年」
「あら、じゃあ少し隙のできる時期ね」
見透かしたような台詞。その言葉に、
だけど、さっきチラッと見た感じでは30いっているかな?
「おやすみ」
唐突に女は会話を打ち切ると、
変な女。
けれど不思議とこんな偶然を楽しんでいる自分が居た。
“隙のできる時期ね”
さっきの台詞が頭をかすめて、俺は苦笑いをしていた。
翌朝、いつものパンの代わりに手のこんだ朝食が並ぶ。
丁寧にだしをとった味噌汁が香りのよい湯気を揺らしていた。
夕べ連絡もなしに午前様になってしまったのが後ろめたいのか、
たいして眠っていないのに雛子はこんな朝食を並べて俺のご機嫌を
「啓介、もう寝てると思って。
子供もまだいないんだし、
「遅くなるのは仕方ないけどさ、連絡がないと心配だろ?
刺のない俺の声色に安心したのか雛子は
「うん、わかった。新しい部署、若い女の子ばっかりで、
ちゃっかりと、
ま、たまにはこの部屋で一人のんびりもいいさ。
そう口にはしなかったが、雛子の言葉を否定もせず、
雛子とは職場結婚だ。IT関係の会社で部署は違ったが、
まだまだお互い30歳だ。
だげど二人で暮らしていくリズムがそれなりに整い、
そう、少なくとも俺はそう思っていたのだ。
隣の女と関わるまでは…
庭先でのあの会話を機会に、隣を意識するようになっていた。
家で仕事をする機会が多い俺は、その気配に耳を傾ける。
窓を全て閉じていれば隣の音など聞こえはしないが、
こんな平日家に居るってことは、彼女は専業主婦なんだろうか?。
今日もジャズが聞こえてくる。
トランペットとウッドベースのセッション。
俺は西麻布のバーにでも居る気分になる。
用もないに庭先に出て、雛子が朝、
この昼間の日差しの中で、隣の女を見てみたかった。
あれから数日経った今となっては、
彼女の姿はライターの明かりに揺れる蜃気楼のように、
隣の芝生は青く見えるか…
待ち伏せみたいな事をしている自分が馬鹿らしくなり、
夕方、雛子からメールが入る。
…なんだよっもっと早く言ってくれよ。
何だか今日は仕事のノリがイマイチだったので、気分転換に夕飯なんて用意していた。
男の料理の定番っていったら、やっぱカレーでしょ。
玉葱をじっくり炒めて、時間かけて作ったのに、
機嫌が悪くなっていく自分に気付く。
この嫌な気分を落ち着けようとタバコを掴むと庭先に出た。
ぴしゃっ
音を立ててサッシを開く。
誰もいないけど、自分の気分をそんな音でアピールしてみた。
けれどそんな感情を誰かが受け止めてくれるわけでもく、
何イライラしてんだ俺。
はぁ~と溜め息をついた時、
「うわっ」
クスクスと笑いを噛み殺した声。
「あら、ごめんね、びっくりした?」
誰だって驚くだろ?
ホラー映画じゃあるまいし。
隣の女だった。
一度手を引っ込めると、
新品のタバコだった。
しかも俺が吸ってるラークのメンソール。
「あげる」
「えっ?だっていいよ、たった1本あげただけだし」
「いいから持ってて、
やっぱり変な女。意味がつかめない。
「タバコの本数減らしたいんだけど、
そういう事か。意味はわかった。
普通、ただの隣人にそんな事頼むか?
俺を見つめる視線を感じて、はっと顔を上げると、
小っちぇ顔…
ちょうど輪郭だけそこにはまっている感じ。
女は口元て両手を合わせる仕草をした。
「よろしくね、お隣のよしみで協力してよ」
この前と違ってお互いリビングの明かりが庭にもれているのではっ
独特の顔だち。くっきりした黒い眉、大きな目、ぽってりした唇。
何て言うか、美人だった。その事については文句などない。
ただ、
そこで俺を覗き込んでいる彼女は、
凛とした、見透かしたような深い黒い瞳。
「いいよ」
ご近所付き合いも大切だ。
「あら、いい匂い。今日はカレーかしら?」
「…あぁ」
忘れてた。
「ウチは今日独りだからピザでもとろうかな」
「そうなんだ、よかったらカレーおすそ分けしようか?」
「悪いわ、奥さんの愛情たっぷりの夕ご飯」
「いや、俺が作ったんだ。彼女、残業で外で食べてくるらしいし」
「そうなの?‥今日は遅くなるのね」
ちょっと待っててと、女は部屋に入って行った。
そしてすぐに戻ってくると底の深い小ぶりのスープ皿をいつもの穴
「いただきますっ」
「カレーまでこの穴から?」
玄関ってもんがあるだろうに。
「なんかこの穴、秘密っぽくて気に入ってるのよ」
やっぱ変な女。
だけど、面白い。
その夜は仕事がはかどった。
2時ごろそっと帰宅した雛子がバツが悪そうに書斎を覗いていた。
それから何回か、垣根の秘密の穴で俺達はタバコをやりとりした。
庭に出ても、隣の女と会う確立は一週間に二回くらいだった。
何だか俺、タバコの本数が増えた気がする。
この女と会える夜には、何か共通点がある気がした。…なんだろ?
「11月にもなると庭も冷えるわね」
俺の指の中からタバコを摘み上げながら、女はそんな事を言った。
初めてここでタバコをねだられた夜は、確かまだ9月だったな。
女の名字は知っていた。
だけど名前なんて知らない。
ピピッと女の方から短い電子音。
夜中の12時過ぎ。こんな時間メールか?
俺が彼女を知っているのは、
タバコを渡す時、俺の手から火をそれに付ける時、
当たり前に俺の知らない彼女の生活があるだろう。
俺は彼女に何を求めているんだろう。
フリーになって仕事は順調だった。
雛子は新しい部署に移ってから、やたら帰りが遅い。週に1、
今日だって…
もしかして俺、寂しかったりするのかな?
たまにこの庭て隣の女と会うのを楽しみにしている自分がいた。
別にそれ以上何を期待しているわけでもない。
ただ、
俺は二人の間に割り込んできた、
携帯なんて鳴らない所でのんびりしたいな…
そんな事思っている自分に呆れた。
俺、重症だな。
パチンと携帯を閉じる音。今日はそろそろお開きかな?
だけど彼女はおやすみの代わりに意外な言葉を口にしたのだ。
「ね、今日は月が綺麗ね。裏の公園にでも散歩にでも行かない?」
マンションのエントランスとは反対の方角に小さな公園があった。
滑り台と砂場とベンチが幾つかあるだけ。
そこにこの女と並んで座っている自分が信じられない。
だけど月は本当に綺麗だった。
これは現実か?
「ねぇ、こうやって垣根がなくて顔合わせるの初めてね」
女があの瞳で俺を覗き込む。
闇に溶け込むような深い深い黒い瞳。
「変な女だと思っているでしょう?」
「いや、俺、結構楽しんでいる。垣根の穴、
愉快そうに口の端を上げて女が笑う。
顔にかかった細かく縮れた長い髪を、ゆっくりと掻き上げる。
そして俺の耳元に唇を寄せて、声を落として小さく囁いた。
「こういう内緒事ってドキドキするわね」
息がかかるような女との距離。
「あの人たちもそうなのかな?」
え?なに?誰の事?
女は俺に視線を絡めると、
タクシーが走り出すのが見える。
キスでもしている感じだ。
「夜の公園で抱き合うなんてロマンティックよね。
は?聞いてくるって‥何言ってるの?
変な女だとは思ったが、頭がおかしいとは思わなかった。
つかつかと女はカップルのほうに向かって歩き出す。
半分くらいまで距離を縮めたところで唖然としていた俺は我に返り
ドキドキしていた鼓動が、違った意味でもっとドキドキしていた。
酔っ払ってるのか?コイツもしかして。
人様を巻き込む前に止めなくちゃ。
だけどスタートが遅かったせいか、女に追いついた時に、
女の腕を掴もうとしたとき、
怯えているようなその彼女の仕草を申し訳なく思い、
「嘘だろ?」
それは雛子だった。
男のシャツの裾を握り締めている雛子の拳が小さく震えていた。
目を見開いて、言葉も出ないといった様子で俺を凝視している。
そして相手の男はというと‥隣の女を見ていた。
4人もの人間が顔を突き合わせているというのに、
それを引き裂くかのように隣の女がくすくすと笑い出した。
「逢引は楽しかった?
六本木の路地裏。
薄暗い階段を登っていく。タバコの煙なのか、
重い扉を開くと、
入り口のすぐ近くにあるカウンターは立っている客でごった返して
外人の年はよくわからないがそこに混じっている日本人を見ると、
50代40代…
服装も様々だ。
あとはあんまり金のなさそうな、いい年をしたアウトローな男達。
場違いな所に紛れ込んでしまった気分だった。
店を見回すと奥まった場所に小さなステージがあった。
ドラマーだけが黒人で、スーツを粋に着こなし、
ステージの上でそいつ以外は皆日本人だった。
店の客層をシャッフルして並べたみたいにちぐはぐなメンバー構成
ティナーサックスやウッドベースが見て取れて、
ジャズバーだ。
今朝、
メモはこの店の地図が簡単に手書きで書いてあって、
夕べあれから雛子とは言葉も交わしていない。
だけどさすがに同じベットに眠る気分にはなれず、
そして昼頃リビングの扉を開けると、
だけど‥予約してある黒木って誰?
隣の表札は木村だ。よくわからなかったが、
何だか、お互い同じような状況の者として、
カウンターのバーテンに「
ステージの前の席を空けてあるから、
立ち見の客を掻き分けるよう進むと、
リザーブの札が置いてある。
あの、女はどこなんだ?暗い店の中に視線を泳がす。客のほとんどが男だったが、
店のママかと思わせる妙に場離れした迫力のある女。
誰かに連れられてきてしまっただけという感じの落ち着きの無いO
他には黒人女かと見間違うくらいそれになりきった日本人。
だけど、あの女はいなかった。
どういうつもりだ?とっくに約束の時間を20分は過ぎている。
“逢引は楽しかった?
あれが浮気の現場をさえた妻の言う台詞だろうか?
浮気をやらかした雛子のほうが涙を浮かべていた。
‥逆じゃねえの?
雛子の浮気相手‥あの女のダンナなんだろうけれど、
年も俺と同じくらいといった感じ。
俺より背は高かったけれど‥
俺よりちょっとだけ彫りが深かったかもしれないけれど‥
ま、ちょっとはいい男だったかな?あういうのが女受けするのか?
俺だって女にモテないわけじゃねえぞ。
ただ、結婚してからは他の女なんてご無沙汰だっていうだけで、
‥何、張り合ってんの俺‥。
だけど女ってあんな時は泣くもんだと思っていた。
愛してないのだろうか?あの男の事を‥
じゃあ、俺は?雛子に罵倒の言葉一つ投げないこの俺は?
愛してないのだろうか?雛子の事を‥
ぼんやりとそんな考え事をしていると、
カウンターのほうから拍手が沸いてくる。
鮮やかなブルーのシンプルなロングドレスを着た女が、
ステージの上部のライトが眩しいくらいにボーカルの女を照らし出
慣れた手つきでマイクを握ると、聞き覚えのある曲を歌いだした。
あれ?この声‥
濃い化粧と体に張り付くセクシーなドレス。
同一人物とは思えない。だけど、間違えるはずもない、
掃除機の音にまぎれて聞こえてきたあの曲。
ビリーホリディの『MY MEN』
ジャズは嫌いじゃない。今はマクドナルドでだって流れている。
趣味じゃない音を耳にするなら、
だけどこういう場所に足を運んでまで好きという程ではなかった。
昔通っていた西麻布のバーのマスターがジャズ好きで、
そして嬉しそうにウンチクを並べてはレコードに針を落としていた
だから、知らぬ間に耳に慣れていたのだ。
その頃付き合っていた彼女と別れてヤケ酒を飲みに店を訪ねたら、
『女心でも勉強しろ』と
Two or three girls
Has he
That he likes as well as me
But I love him
(彼ニハ2.3人、恋人ガイテ、
切なく響くハスキーな声で、今、こんな歌詞をあの女が歌う。
何だかいたたまれない気がした。
彼女はいつから気付いていたんだろう。
だって、そうだ。いつも庭で会うときの共通点‥
だから、彼女は俺を待っていたんだ。
雛子が居ないか確かめる為に。
それを勝手に‥
秘密なんて響きにちょっとドキドキしていたんだ。
“そろそろ隙のできる時期ね”
あの言葉が再び頭をかすめる。
どうして雛子を責められる?
最初の曲が終わると、どっと喝采が店を包む。
時間が止まったような場末のジャスバーが、彼女の歌声で息が吹き込
俺は唖然とただ彼女を見ていた。
夕べの出来事も、目を合わせない雛子の事も、
「皆様ようこそ、黒木蘭です。
パチパチと余韻のように響く拍手の中で隣の女…
時には捨てられた女のように、あるいは妖艶な商売女みたいに。
まるで女優が様々な女の顔を演じてみせるかのように彼女は歌った
バンドの男たちもそんな彼女とのセッションに生き生きと楽器を鳴
だけど陶酔したようにカッコつけてドラムを叩くあの粋な黒人でさ
店の全ての眼差しが彼女に捕らわれているようだ。
俺をこんな場所に誘い出したくせに、
俺の為に席を空けていてくれたはずなのに…
化粧の落としたあどけない彼女を知っている奴はこの中に何人いる
彼女の指先の温度を知る男はこの中にいるのだろうか?
ステージの蘭が遠くに感じる程に、
あの穴から覗き見した時のように、
この暗がりの中、彼女の視線で俺を照らし出して欲しかった。
滑り出したイントロが、がらっと雰囲気を変えた。
ラストソングだと蘭が歌い出した曲…
そのリズムはあまりにも有名で、
なんでこんな曲がジャズになるんだろう?
夢見る年頃の無垢な少女がうっとりと囁くような歌。
深いスリットから危なげに足を覗かせながら、
Some Day My Prince Will Come
(イツカ王子様ガ)
ディズニーアニメの名作・白雪姫のメインテーマ曲。
白い馬に乗って王子様が迎えに来るのと、蘭は歌いはじめる。
意外だった。
そう信じなければ生きていけないのよ‥。
そんな溜息が秘められているように。
そしてゆっくりとマイクを置いて歩き出すと、
「ね、タバコ1本頂戴?」
火をねだり顔を寄せてきた彼女に話しかける。
「黒木って君の事だったんだ」
「あ?うんあたしの旧姓」
「えっ、旧姓っ?」
旧姓って旧姓ってまさか、
そんな思惑が顔に表れたのか、蘭はそんな俺をみて吹き出した。
「やだ、あたしそんなに鉄砲玉みたいな女に見える?
彼女は暗がりの中、青く揺らめくタバコの煙を、
「木村じゃさ、
いつの間にか忍び寄った影が、
ドラマーの黒人だった。
皮膚の色より濃いまつげを伏せて、彼女の髪に口付けてくる。
「今日のステージ最高。ラン…」
流暢な日本語だった。だけど女への仕草は外人。
愛の告白かと思うような眼差しで、
‥俺、もしかして眼中にないってか?
「ジョー、今日のあたしはReserved(ヨヤクズミ)よ」
蘭の口調は穏やかだったが、冷たく突き放した刺を含んでいた。
ジョーはちょと傷付いたように肩をすくめてみせた。
「最近ラン、この店で歌うのあんまりないけど‥
if‥とその男が言いかけたとき、また蘭の刺が飛んだ。
「駄目よジョー、来週はあたし旅行に行くの」
大げさにうな垂れてジョーは席を離れていった。
さっきまで、
「クリスマスイブなら、ここのライブに顔を出すわよ」
蘭の影のようなジョーの後姿に、
振り向いたジョーは、
それからも絶え間なく、
ある者は薔薇の花を手に、ある者は賞賛の言葉を伝えに‥
高価そうな薔薇の花束を手にしても、
真珠色の薔薇のつぼみに満足そうに少し鼻先を近づけるだけ。
彼女のお気に召したらしい。
ファンの男は胸を撫で下ろして嬉しそうにテーブルを去っていった
目の前で繰り広げられる光景は、
男を手玉に取る女。
そういう種類の女を知らない訳じゃない。
だけど俺の記憶にある男を翻弄する女達は皆、
色んな男を伏せ目がちに見つめて、貴方だけの物なのよと、
自分の価値を確かめるため、伸ばされる腕の数を数えるような、
だけど目の前のこの女は、
男の自尊心をくすぐったりせず、
「ここじゃ落ち着かないから場所を移しましょうよ」
俺の返事も聞かずに蘭は席を立った。
事態の変化に追いつかず、モタモタしている俺の腕を掴んで。
何もかもが彼女のペースだった。
繋がれた飼い犬のような気分で、彼女と狭い階段を降りて行った。
歩いて2、3分のところにある公園のベンチに座った。
昨日の月を探そうと見上げてみたけれど、
繁華街から程近いにもかかわらず、
途中で買った缶コーヒーが手のひらを暖めていた。
「‥来週、旅行に行くの?」
何を話していいのか分からず、
「ああ‥そうね」
まるで気乗りがしないといった感じで蘭は答える。
ただ、ジョーを煙に巻く思い付きだったのだろうか?
蘭は立ち上がると、ベンチの向かいにあるブランコに座った。
そしてゆっくりと漕ぎ出した。
漂う沈黙に俺は聞いてはまずかったのだと思った。
そもそも、俺達なんでこの公園に居るんだ?
まるで昨夜の続きのようじゃないか‥
フラッシュバックのように昨夜の出来事が頭を横切る。
家に帰るのが憂鬱だと思った。
「男って鈍感よね、
いきなり蘭が口火を切った。
昨日のメール‥そういう事だったんだ。
「あなた、
彼女の言う『鈍感』
「ね、家の空気、辛気臭くない?」
「‥ああ‥うん」
なんて答えていいやら、言葉に詰まる。
「ね?逃避しない?
「逃避?」
「来週木曜から1週間、静かな南の島でも行きましょうよ」
蘭の言葉には現実味がなかった。まるで夢みたいな話だったから。
いや、もちろん夢なんだろう。
それにいくら俺たちが同じ立場だからって、
キィと音を立てて、蘭はブランコから降りた。
そして、
「行くの?行かないの?はっきりしなさいよ」
真っ直ぐ俺を見据えるその視線。
背筋がぞくりとした。
ああ、そうだ。この女は夢なんて口にしない。そう悟った。
いま、俺を映しているその深い黒い瞳に、
「‥いいよ」
もう、どうにでもなれだ。
どうせもう泥沼なんだ。
「だけどどこに行く?場所は決まってるのかな?」
この期に及んでの俺の問いかけに蘭はにやりと笑った。
「大丈夫、場所はおさえてあるの。
南の島。
沖縄もハワイもグァムすら行ったことがなかった。
海外旅行はイタリアとフランスとトルコ。
遺跡や博物館を巡り歩いたり、
新婚旅行も雛子とフランスの古城なんて訪ね歩いた。
南の島‥今までの自分にとっては縁遠い場所だ。
なんとなくテレビや映画で見るハワイの海岸線なんかを思い描いて
一週間程、旅行に行くからその間、
お互いのだんまりも限界だったのだ。
だけど今更話し合うきっかけも掴み損ねたままだったから、
どこに行くのかなんて、雛子は尋ねなかった。
俺がこれからしようとしている事は、
お互い様なんて言葉は当てはまらないくらい異常な事だって。
逃避‥。それでいいじゃないかと自分に言い訳をしてみる。
何もかも投げ出して、今までした事がないようなことをしてみる。
成田の出発ロビーで蘭と待ち合わせをした。
南の島の名前を蘭は教えてくれた。
ミリヒ
モルディブの島の一つだと。
そう言われても疑問符だらけの旅だったが、
久しぶりに感じる、遠足前のワクワク気分。
ただそんな感覚が懐かしくって。
一体いつ、南の島とやらに着くんだよ。
飛行機降りたら到着だと思っていたのに、
早朝また飛行場に戻って水上飛行機とやらに乗り込んだ。
眠い眠い。
しかも馬鹿みたいに激しい雨がザアザア降っている。
スコールってヤツ?
熱を含んだ生ぬるい雨が俺の足元をぐっしょりと濡らしている。
靴の代えなんて持ってこなかった。
ビーチサンダルも持って来ようと思っていたのに忘れてきた。
最悪の気分で小さな飛行機に乗り込んだ。
たった6列くらいしかないこの飛行機はあんまりにも頼りなく、
乗り込む前に見た海は、日差しがないせいかどんよりと暗く、
期待しすぎていたのかもしれない。
蘭も一緒に来ているとは思えないほどにそっけなかった。
飛行機が離陸してほんの少し経った頃、
窓際に座っていた蘭が、振り返ってニッコリと笑ってみせた。
そんな彼女の笑顔を初めて見た気がして、
彼女、子供みたいに嬉しそうに、窓の外を指差してみせたんだ。
だから、小さな飛行機の窓に、乗り出すように顔を近づけてみる。
心臓がドクリと波打った。そんな衝撃。
俺が乗ったのはスペースシャトル?
だって目の前の風景は“地球”だったから。
空はすっかり嘘みたいに晴れ渡っていて、
それに、だってこれって何だ?
その空の下に広がるこの景色。
緑の生い茂った小さな島を白い砂浜がドーナッツみたいにぐるっと
その周りを大きくソーダブルーの海が覆っていて、
何もかもが降り注ぐ光を弾いてキラキラと輝いていた。
飛行機の高度はそんなに高くないのだろう、
「インド洋の真珠の首飾りって呼ばれているのよ」
落ち着いた声で蘭が呟く。
さっき一瞬見せた子供っぽい笑顔はもうなかったけれど、
俺だって今まで海外旅行で沢山の感動をそれなりに感じてきた。
人間が作る芸術に心を躍らせて遺跡や美術館を巡り渡った。
だけどここには‥神が創った芸術品とでも言うのだろうか?
ミリヒでのバカンスが始まった。
俺がイメージしていたのと全然違う、南の島がここにはあった。
想像も出来なかった。こんな場所を。
ビーチにはビキニを着た女の子が連なっていて、
波に乗ったサーファーと波間に揺らめく人々。
そして海岸線に連なるリゾートホテル。
これが俺のイメージしていた南の島のバカンスの様子だった。
だけどここは、ビーチに人ってどこ?
波は全然穏やかで、
皆どこにいるの?
あまり人の気配というのを感じさせない不思議な雰囲気の島だった
ホテルのスタッフに案内されたのは。
こんな物を初めて目にする。
部屋の中は意外と狭く、だけどシックにまとまっていて、
花びらで飾られたダブルベッドに俺の目は釘付けになってしまった
年がいもなく、顔が熱くなるのがわかる。
まるでナンパされてホテルに連れ込まれた生娘みたいに、
このウルトラムーディな小さなコテージに蘭と過ごすなんて…
期待しない訳じゃない。だけど…そんな事ありえるのだろうか?
「ふふっ、まるでハネムーンね」
からからと海に面したガラス戸を開きながら蘭は意味深な含み笑い
そのガラス戸はパタパタと折りたためるようになっていて、
外のウッドデッキテラスと部屋はフラットにつながり、
しかも、目の前に広がる海が、
ベットの周りばかり泳いでいた俺の視線はいつの間にか、
光が届く限りどこまでも透明なブルー
こんな色を見た事などなかった。
たった一周10分程のミリヒは完璧な南の島を凝縮した、
粉雪のような砂浜は裸足が似合い、降り注ぐ日ざしに、
そして仕上げに髪に一輪、島の花なんて飾るのだ。
様々な国の女性ゲストが飛び回る蝶のよう、この島を華
そんな彼女たちをエスコートするのは香ばしく焼かれたブロンズ色
どこに隠れていたのか、朝方、
そんな中でも一段と蘭は目立った存在だった。
シックなモノトーンのパレオ。
日本人らしくないヘアスタイルは意外にも茶色く染められずに黒髪
ヨーロッパ人だらけのレストランの中で、
恋人の目を盗んでちらりと蘭を見つめる異国の男達の視線。
彼女は見詰める瞳の数が多いほどに更に強く光を放つ。
そんな彼女の隣の席で、俺は鼻高々だった。
不釣り合いな男だなんて笑い者になどなりたくない。
そつなく完璧に周りの男達と同じように蘭をエスコートしてみせる
ビュッフェに並ぶ彼女の皿に食材にふさわしいソースをかけたり、
食事を終え、席を立つ蘭に絶妙のタイミングで手を差し伸ばすと、
そしておかしそうに口の端を上げ、
「女を扱うの上手いのね、奥さんの躾けがいいのかしら?
胸の奥を小さなトゲがチクリと刺す。
俺の手を引いて歩き出す美しい黒アゲハ。
ひらりひらりと金色の燐粉をふりまきながら、
羨むようなウェイターの視線を背中に感じながらレストランをあと
島を散歩がてらゆっくりと歩いてみると、
その苗木ひとつひとつにプレートが立てられていた。
不思議に思い覗き込むと、そこには名前らしき物が刻まれている。
近くで落ち葉を掃いているホテルスタッフにこれは何かと尋ねると
ここで結婚式を挙げたカップルだけに贈られる、
未来に夢を託して二人で植えるのだと。
甘いハネムーンにお似合いのサービスだと思った。
南の島の粋なサービスに幸せを噛みしめながら、
その未来にもしかしたら、
そんな事が頭をかすめ、俺は自分の皮肉を少しだけ恥じた。
自分だって妻でもない女と過ごすこの楽園のひと時に、
今頃、本当の妻は遠く離れたあのマンションで、
それは俺のお気に入りのアンディウォーホールのポスターが壁にか
あの公園でキスを交わしているカップルの女が雛子だったなんて。たまたま結婚を意識するような年に付き合っていたのが雛子だった
それまで付き合った他の女達と、
雛子も俺とたいして変わらない気持ちだったと思う。
28までには絶対結婚したいと、よく口にしていたから。
もちろん充分、雛子はいい女だった。
一番いいとこ持って行きやがってと、
彼女にとっても、
趣味も合ったし、
燃えるような、なんて時期はなかったけれど、
雛子が浮気‥
そんなこともあるさ、なんて、投げやりにしか感じないなんて。
だけど、どうにもならないじゃないか。
そう、どんなに誤魔化しても誤魔化しきれない。
今、蘭を目の前にして感じる胸の高まりを。
2年も夫婦をしている雛子にすら感じなかった、
しかも、雛子の不倫相手の奥方だなんて
笑っちゃうよ、どうなってるんだよ。
部屋のウッドデッキテラスから直接海に降りる階段があった。
レンタルでさっき借りてきたシュノーケルを装備して海に飛び込ん
人の気配のない、静かで穏やかに揺れていたこの海の下が、
これも神が創った芸術品なのだろうか?信じられない色彩の渦。
海の泡かと見間違うような、
黄色の体に模様は黒のストライプ、
泳いでも泳いでも、次から次へと入れ替わる、
見渡す限り観客は俺だけか。いや、今、
俺が通ってきたサンゴの合間をなぞるように泳いでこちらに向かっ
並んでいる他の水上コテージのに目をやると、
あっちもこっちも…
人の気配がしないと不思議だったが、皆、
そんな風に過ごすのがふさわしい場所だと思った。
この自然に包まれて、
綺麗なフォームで水を掻き分け、
気付かされてしまった彼女への想い。
だけど相手が同じ気持ちではないという事が、
それでも他の誰でもなく、俺に向かって泳いでくるその姿に、
ミリヒで初めての夜が訪れる。
夕食を終えてコテージに戻るまでの帰り道で、
太陽が沈み色彩を失ったこの楽園を、
月の存在が薄れてしまうほどのその輝き。目を凝らして見詰めると、
それは新しい島がこの環礁に生まれる瞬間ではないかと錯覚させる
今朝、小さな水上飛行機の窓より美しい島々を眺めながら、
“インド洋の真珠の首飾りって呼ばれているのよ”
空から落ちてきた美しい流れ星がインド洋の真珠の首飾りと呼ばれ
それほどふさわしい夢物語が他にあるだろうか?
自分らしからぬロマンティックな想像に俺は苦笑いした。
この島はどんな人間も詩人に変えてしまう魔法さえ秘めているらし
「なによ、ニヤニヤしちゃって」
蘭がそんな俺を覗き込む。
「今、頭に浮かんだ事話しなさいよ」
スケベな想像でもしていると思われたのだろうか?
言い訳を探す俺に、蘭は呆れた様子で言った。
「隠し事をする男は信用できないわ」
おいおい、その台詞ってダンナに言ってくれよ。
笑われるのを覚悟で、俺は流れ星とインド洋の首飾りの話をした。
こんな俺、恥ずかしくって目も合わせられない。
だけど、注がれる眼差しに気付いて顔を上げると、
そうだ、こんな暗闇の中でこそ彼女の瞳の奥深くは、
見詰められると、身動きひとつ取れやしない。
すでに毒針は胸の刺に仕込まれているのだから。
「あたしって運がいいのね」
え、何て言ったの?運がいいって何の事?
だけど、そんな疑問符は重ねられた唇の温もりに弾け飛んだ。
「素敵なお話にご褒美よ」
唖然と言葉もない俺に蘭はクスリと笑って、満天の夜空を仰いだ。
‥甘かったな俺‥
すやすや隣で眠る蘭の寝顔をちょっと忌々しく見詰めてみる。
だってさっきのキス。期待するだろ?子供じゃないんだからさ。
そうだった、忘れていた。
ベットにに散らばる蘭のくるくるとした縮れた巻き髪。
それに顔をうずめて口付けていたジョーの事が頭をよぎる。
あのジャズバーを二人で抜け出すときに、
キスなんて彼女にとっては挨拶代わりなのかもしれない。
それに俺だってキス一つでうろたえる年でもないじゃないか。
ある頃からかキスなんてその先の行為を始める順番の一つくらいに
だけど、さっきの
塞がれた唇の感触。
そっと頬に触れた彼女の指先。
新鮮で暖かくて溶けてしまうようなひと時だった。
1週間の夢が終わったら、
隣同士だから距離的にはほんの少しの差なのかもしれないけれど、
その境界線は自分達が決して身軽な身分じゃない事を物語っている
雛子達が最初に俺達を裏切ったからなんて事だけじゃ拭えない境界
だから、今だけは‥
こんな風に無防備に蘭が眠っている今だけは、
同じ熱い眼差しを期待する事もなく、ただ、
ベットの下をさらさらと流れる波の音に耳を傾け、
いい匂いがした。安っぽくないコーヒーの香り。
雛子、珍しく豆を挽いて美味いコーヒーを用意してるな‥
目を閉じたまま鼻だけをひくひくと動かして、
シーツのひんやりと冷たい感触が心地よく思える空気。
暖かい‥
最近めっきりと冬の気配を感じさせる朝の空気の冷たさにいやいや
だけど、今日のなんとさわやかな目覚め。
目を開くと見知らぬ天井がそこにあった。
いつもの白い壁と白い天井じゃない。
温もりを感じさせる木材の天井には見慣れない大きなファンが取り
ここはどこだっけ?
飛び起きた。一瞬にして眠気が吹っ飛んだ。
馬鹿みたいにきょろきょろと部屋を見回してみる。
大きく開け放たれたベッドルームの扉の向こうに、
「あら、ちょうどエスプレッソを用意したところよ。
昨日、何もかもが夢のような出来事ばかりだったから、
雛子の声じゃない。俺、まだ夢を見ているのかな?
いや、頭はすっきりさわやかだ。
テラスの椅子でくつろぐ女の後姿。揺れる髪が見て取れて、
そうだ、ここはミリヒという名の南の島だ。
いつも海外旅行に行くと、
メトロの路線図、辞書、ガイドブック、バスの時刻表…
だけどここは
海がよく見えるレストランの朝食のテーブルで俺は蘭に尋ねてみた
「今日は何するの?」
「何にも。ご飯食べてシュノーケルして、昼寝して、それだけよ」
それって昨日と同じなんだけど…
「他のリゾートに遊びに行ってみる?」
「他のリゾートってどんな感じ?」
「ここと同じようなものよ。海があるだけ」
同じようなもの…
そこで黙り込んだ俺に蘭は煙草を一本ねだってきた。
口の端に軽く咥えて自分で火を付けて、
「退屈でしょ?何もなくて」
今日も明日も何のスケジュールもない。
この歩いて10分の小さな島で蘭と過ごすだけなんて。
「最高だな、ここは」
独り言みたいにそんな言葉が俺の口をついた。
頬杖をついて煙草をふかしていた蘭の口元がにやりと笑う。
スケジュールだけじゃない。
ここでは時計も靴も鞄も必要ないのだ。
ルームナンバーのサインさえすれば、
居心地のよい木陰があれば充分だった。
そしてこの楽園のガイド、
ホント…最高だ。
なんて贅沢なバカンス。
「ラン?あなた、ランじゃないですか?」
そろそろ席を立とうと思った時だった。
人懐こい笑顔でホテルのスタッフがそう話しかけてきた。
「ワタシ、覚えてますか?マチャフシで会いました」
こんな場所で彼女を知っている奴がいるという事に驚いた。
「モハメッド、ベビーは大きくなった?」
たいして驚く仕草もなく、蘭はその男にそんな言葉を投げる。
モハメッドは嬉しそうに頷いている。
ホテルスタッフだという事は見てわかるのだが、
多分、貫禄からして、管理職なのだろう。
俺にもさわやかな笑顔で握手をしてくるが、その顔に一瞬、
「ボクはラッキーね。今年もあなたに会えるなんて。
「シュクリア」
モルディブ語でありがとう。昨日、彼女から教わった単語。
蘭がそれを口にして微笑んでみせると、
そして「普段はレセプションに居るからね」
「去年行った島で彼、
日本語頑張って勉強していたから、この島に転職して、
彼の俺に向けられた不思議そうな眼差し。
去年と相手が違うと思ったんだ。
俺は動揺しているのを悟られまいと平静を装って会話を続ける。
「モルディブ、去年も行ったの?」
「ええ。1年に一度はあたし、この海を見ないと、
南の島をそうやって繰り返し訪れる人たちをアイランドジャンキー
蘭をそんなにも魅了するのは、
それとも、人目も気にせず愛し合える南国の甘いひと時か。
「ミリヒにマチャフシ…色んな島があるんだね」
「ほんと、
オルベリ
ナカチャフシ
イフル
アンガガ
クラマティ
トラギリ
ぽつりぽつりとそんな聞きなれない単語を蘭は並べる。
「
あなた運がいいわよ、最初からここに来ちゃうなんて」
運がいい?
本当だったらこのミリヒの朝食のテーブルに蘭と並んで海を見つめ
あの男はこの場所で、
今回、こんな形で訳もわからず連れてこられる事がなければ、
自分が誰かに対してこんな風に、
だけど蘭は?俺,、彼女を満足させている自信なんてないぞ。
いや昨夜、彼女なんて言ったっけ?
“あたしって運がいいのね”
旅行に一緒に来ているのだからと、
蘭はどうして俺なんか誘ったんだろう。
浮気したダンナへの腹いせか?雛子への復讐か?
ひとりで日本の女がビーチリゾートなんてきたら、
スペアキーのようなものだろうと俺は思った。
こんな場所に一人じゃサマになんないもんな。
本当のカギを忘れてしまったときに用意するスペアキー。
差し込んでまわせば扉は開くんだ。
だけど、本当のカギが見つかれば、
俺が何も言わないので会話は途切れたままだった。
蘭は何の思惑も浮かべない、
その視線に気付いて、俺は慌てて言葉を探した。
何か言わなくちゃ。
「モルディブは何回来たの?」
馬鹿か俺は、思いっきり墓穴を掘ってやがる。
そんな事、聞きたくもないのに。
「結婚してからだから、そうね8回目よ」
え?年に1度ってさっき言ってたよな?
結婚してから8回目ってどういうこと?
更に墓穴を大きくするような馬鹿な質問を上塗りする。
「結婚して何年経っているの?」
「9年よ、大学2年の時に学生結婚したのよ」
太陽が移動して、
その日差しに照らされて、俺はうっすらと汗をかく。
だけど俺を濡らすその汗は、体から流れる熱いものではなく、
そんな汗にまみれた俺の心から湧き上がってくるこの慣れない感情
それは嫉妬心だという事に気付いて俺は途方に暮れていた。
そして思ってもみなかった蘭の結婚生活の、
俺は昨日と何も変わらずに当たり前のように光を弾いて揺れる、
ぼつりと黒点のように水面に浮かぶ蘭がそこから見て取れる。
今日はバーの辺りをシュノーケルしようと、
何だかそんな気分になれず、
蘭は、じゃあ日向ぼっこでもしてなさいねと、
部屋にぽつんといるのも退屈で、ちょっと時間を置いた後、
ビールを注文したかったけど、腹が痛いなどと言った手前、
"大学2年の時に学生結婚したのよ”
さっきの蘭の言葉が頭をよぎる。
若くて結婚する奴もいるだろう。
だけど皆、例外なく出来ちゃった結婚だった。
訳ありだったからそんな若さで結婚したのだ。
大学2年、遊び盛りで環境だって大学生なのに、
勝手な想像だ。人様の結婚の理由なんて。
だけど、頭に浮かぶ理由は俺を落ち込ませるものばかりだった。
…それくらい愛し合っていたんだろう。
あの二人なら差し述べられる手は沢山あっただろうに、
そして、
それも9年…
妻と全然違うタイプの女とポロッと浮気。
それってありだろう。
奴を庇う訳じゃないけど、男だもん、そんな若く結婚したならば、
たいして動揺もせず、公園であの時、笑いさえ噛み殺していた蘭。
ジャズバーで軽やかに男たちの間をすり抜けていた、
そしてこんな場所に躊躇もせず俺を連れ込み、
とても淑女とは言えない魅力的な蘭は、この9年、
だけどそれでもお互い離れることなく年月を重ねてきたんだ。
自分の雛子との結婚がとてつもなく、
だから二人して惹かれたのだろうか?
バーに他に客はいなかった。
カウンターのバーテンとウェイターが聞き慣れない現地の言葉で冗
そいつらが急に真面目な振りして、グラスなんかを磨き出した。
バーの入り口から男が入ってきた。あのスーツ、
事務的な感じで何か指示を出すと、
そして、それから目を上げると厳しい表情は消えていて、
南の島の暢気な男たち。
その楽しそうな空気に救われた気分になる。
モハメッドは俺に気づくと、朝と同じ笑顔で近づいてきた。
そして俺が視線を辿り、
そして内緒事のように人指し指をたてる仕草をすると、
大きなパンの塊をいくつか手にして俺の所に再び来て、
パンにつられた魚たちが湧き出るようにサンゴからその姿を現し、
色とりどりの鱗を浮かばせて蘭を包み込む様は、
蘭はちらっとこちらを見た。
モハメッドは大げさに狙いを定めるポーズをすると、
他のスタッフもこのショーを覗きにいつの間にかテラスに連なって
すると突然、
「サメだっ」
さーと血の気が引いた。海から飛び出したあの一本の背びれ…
蘭より少しだけ小さい黒い影がゆっくりと彼女に近づいていく。
ビビった。心臓は飛び出すほどにバクバクと、
夢中でテラスの手摺りに登ると3メートルくらい下のサンゴの影の
「ダイジョブだからっ」
慌てた様子でモハメッドがそう止める声が聞こえたが、
頭からかっこ良く飛び込むなんて技はなく、
飛び来んだ時の衝撃がら穏やかな水面に幾つもの円を描いた。
その周波を察知すると、
だけど、
呆気に取られた顔で蘭がこちらを見た。
「ダイジョブだからっ」
まるで壊れたレコードみたいに裏がえった声で俺は蘭に叫んだ。
しかも妙なアクセントとこの台詞…モハメッドの物真似みたいだ。
いぶかしげな顔をする蘭。
彼女気付いていないのか?
「ダイジョブだからっ」
再びさっきと同じ口調で蘭に言う。
俺はバシャバシャと泳いで行くと、
蘭は目の前に浮いている、ずぶ濡れのパンを拾い上げると、
ぐるりと向きを変えると、
バーの男たちは拍手喝采だ。
「モルディブのサメ、いつもお腹いっぱいだからダイジョブね!!
モハメッドがたまらないという感じでそう叫んで手を振っていた。
いくら南の島だからって。
ずぶ濡れのアロハで歩いている奴なんていやしない。
コテージに戻る途中、
「Are you O.K?」
そんな言葉さえ飛んできた。
俺は穴があったら入りたい、なんてかっこ悪いんだ。
そんな俺の手を引いて、半歩先を蘭が歩いている。
まるでオイタした子供の手を引く母親のようだ。
時々ちらりと振り返ると、
へばりついたアロハが気持ち悪かった。
部屋に着くなり言葉もなく、俺はバスルームに直行した。
シャワーを捻ると、頭からざあざあと熱い湯を浴びる。
俺、今までの人生、ほどほどの二枚目で通っていたのにな。
蘭の隣にいると、カッコつけても失敗ばかりだ。
余裕がないとでもいうのだろうか。
バスルームに充満していた蒸気の濃度が薄くなったことに気付き、
そこに蘭が立っているのが見て取れて、
現実だ。しかも、彼女は…裸だった。
言葉も出ない俺を、あの瞳で蘭は突き刺す。杭が打ち込まれたように動けなくなった。
音も立てずに彼女は近づいてくると、
「笑ったりして悪かったわ、
蘭の瞳の強気な光は消えていて、
昨夜のように俺からキスを奪う俊敏さはなく、
だから恐る恐る彼女の頬に指を伸ばして、
ゆっくりと蘭は瞼を閉じた。
伏せられた睫毛に絡んだ水滴が僅かに震えている。
打ち込まれた杭が体から抜け落ちたように自由になった俺は、
息継ぎが出来ないほどに繰り返し、彼女の唇にキスを落とす。
激しいくらいに抱きしめてないと、
「ちょっ…シャワー…熱い」
さっき日に焼いた彼女の肌が赤く火照っていた。
「あ、ごめ…ん」
キスの合間のたどたどしい会話。
タオルで体を拭う余裕もなかった。
昨日と違いシンプルに整えられたベットのシーツの上に転がるよう
二人の体から滴るシャワーの水滴が、
「これもご褒美?」
先に進んでいいのかを確かめるように.彼女に囁いてみる。
止められる余裕なんてなかったけれど…
「馬鹿ね。ただ、貴方に抱かれたいと思っただけよ」
刺のない素直な彼女の答え。
だけど、
ギリギリのところで踏ん張っていた理性が、
地球の果て…この楽園こそがその言葉に相応しい場所だった。
その海に小船のように浮かぶ小さなコテージで、
彼女にとって俺は所詮、スペアキーなのかもしれないけれど。
俺にとって今、腕の中にいる女は、こんな気持ちを教えてくれた、
蘭は片手で頬杖をついて、
細く立ち登る煙は天井のファンにかき混ぜられる。
俺もお行儀悪く寝ころんだままタバコに火をつけた。
「あたし…どうだった?」
…どうだった?
情事の後、女に感想を聞かれるのは初めてだ。
逆に「どうだった?」と、尋ねる勇気は俺にはない。
バスルームの蒸気で湿った部屋の空気に、
そんな風に素敵だったなんて言える訳もなく、
「すご~く良かった」
ありきたりな台詞。
蘭はいつものように口の端だけで笑ってみせた。
蘭は人指し指でシーツに一本の線を引いた。
「あたしの人生はね、いつも2種類にしか分けられないの」
線が刻まれたシーツの左右を彼女はゆっくりと指し示す。
「彼を知る前のあたしと、知ってからのあたし」
そして同じ仕草をもう一度繰り返しながら言った。
「男も2種類。彼かそれ以外の男」
俺は何も言わずにただその線を見つめた。
彼女の一言一言の重みに耐えながら、次の言葉を待った。
「この境界線を壊すのが怖かった。
蘭はシーツに刻まれた線を、手のひらで擦って消してみせた。
「言ったでしょ?あたしって運がいいのね。
二人しか男を知らない?俺も入れて?
だってそれって
そんな事って…
「古風な女でしょ?今どきの高校生にも負けちゃうわね」
想像も出来なかった。この女が、
たった一人の男しか知らない女が、
いや、だからなのかもしれない
たった一人の男とこの楽園にだけ抱かれて熟成された女は、
だけど、俺なんかがその聖域に、
蘭はどうして俺なんか…
"貴方に抱かれたいと思っただけよ”
ああ、そうだった。
深く考えなくていいんだ。この島は、
それから俺達は、蜜月のような日々を過ごした。
数日後には終わってしまう、儚く脆い夢。
彼女の温もりを感じながら目覚める朝。
白い砂浜に濡れた水着で寝転び重ねる指の感触。
夕暮れのビーチで肩を抱く時に触れるその髪の柔らかさ。
そして寄り添って眠る月光に照らされた静かな夜。
日本に発つ日の午前中に、
ビーチからレセプションに抜ける道、
そこに今掘られたであろう穴がひとつあって、
穴の前に立てられているプレートには蘭と俺の名前が刻まれている
サメに立ち向かう俺の勇気に感動したから、
二人で土をかけてと、モハメッドは言った。
そして、この苗木を見に、またミリヒを訪ねて欲しいと。
離陸した水上飛行機から、ミリヒの島の形が見て取れる。
遠のくほどに既に恋しい。
夢が終わるんだ。
南の島の、ただひたすらに幸福で満ち溢れていた、
成田のホームで「次の電車に乗るから」と蘭は言った。
そうだな、いくらなんでも肩を並べて帰るっていうのも…な。
隣同士だ、いつだって会えるんだ。これからのことはゆっくり考えればいい。
パートナーとの話し合いだって、
「またね」
ホームに残った蘭を、動き出す電車の窓からいつまでも見詰める。
日本に戻った途端、彼女が遠くに感じた。
日本の日付は12月に変わっていた。
平日の午後だというのに、部屋には雛子がいて俺は驚いた。
「今日、帰って来るって言ってたから…」
雛子はちらちらと俺を見ながらそう言った。
南国の日差しに焦げた肌の色に気付かない訳がない。
だけど、どこに行って来たのかと尋ねてはこなかった。
雛子の入れてくれた日本茶が懐かしい香りを漂わせている。
なのに俺は、最後にミリヒで口にした、
蘭もそろそろ帰って来ただろうか?
ぼんやりとそんな事を考えていると、唐突に雛子が話し出した。
「あんなところを見られて今更だけど、
すがるような口調だった。
「だって…隣の彼は?」
「啓介が旅行に行っている間に引っ越していったわ」
「…えっ?」
「奥さんと離婚したのよ、それで彼、部屋を引き払ったの」
リコン?
「あたしの為に離婚した訳じゃないのよ。
…行きの飛行機で黙り込んでいた蘭の横顔を思い出していた。
「あたし、馬鹿だったわ。償いようもないけれど、
「謝ることなんてないさ。俺、
呆気にとられた顔で雛子は俺を見た。
しばらくの沈黙の後、「そう」とそっけなく雛子は言った。
「お互い様って事で水に流さない?」
そう言い放つ彼女の顔に、
「ちょっとお互い遊びが過ぎたけど、忘れましょう」
同意を求めるように甘えた仕草で覗き込んでくる。
その瞳には安堵さえ感じられた。
「いや、俺、もう雛子とは暮らしていけない。
雛子の顔色が変わったのが見て取れた。
「どうして?
そうだと答える代わりに、真っすぐ雛子を見据えた。
「ずいぶんね…冗談じゃないわ。あたし達はね結婚してるのよ?
「勝ち負けとかそんなんじゃないよ」
「なによ…ずるいわよ、あたしだけ結局ひとりぼっちって事?
俺だって誰も愛してくれてないさ…
雛子は今まで見たこともないような冷めた眼差しで俺を睨み付けて
「あの彼は?君を愛してはいないの?」
「彼が愛してるのは結局は別れた奥さんよ」
「じゃあ何で離婚を?」
「知らないわっ。
吐き捨てるような口調。雛子の苛立ちが伝わってくる。
悲劇のヒロインみたいに、雛子は涙を流した。
「ずるいわよ、あたしばっかり…」
それを見詰めながら、その時、蘭は泣いたのだろうかと、
庭先に出てタバコに火をつける。
似たもの同士だからわかる。
垣根の向こうの蘭の部屋は暗く、人の気配はなかった。
真冬の冷たい風が吹き抜けていく。
何が俺から擦り抜けていったんだろう?
教会で誓った永遠の愛?
それとも
南国の島で抱き締めたひと時の情熱?
イブの夜、恋人達で賑わう六本木を独り歩いていた。
おととい、雛子との離婚が成立し、俺は先にマンションを出て、
しばらくあのマンションに残ると雛子は言ったので、
別れると決めてからの雛子は、
早く子供を産みたいから、もたもたやっている暇はないと、、
子供もいなかったし、マンションも賃貸だったし、
これ以上もめる要因は何もなかったのだ。
新しい女に会う気配もない俺に、雛子は「
似たもの同士。2年暮らした夫婦は、
嫌いじゃない。
こんな風に暮らしていけるなら、
だけど、出来なかった。
この胸に焼きついた蘭を抱えながら今、
誰かの温もりに蘭を重ねて生きていくなら、
あのジャズバーでの夜、ジョーに蘭は言った。
"クリスマスイブは、ここのライブに顔を出すわよ”
蘭の電話番号もメールアドレスも知らないままだった。
ネットで蘭の名を検索すると、
若手の中では彼女は、結構有名だったのだ。
半年前、青山のブルーノートに出演した記事すら見掛けた。
だけどこれからのライブの予定はどこにも見つけられなかった。
しばらく休業しているのかもしれない。
ネットの検索にも引っ掛からないあの場末のジャズバーの、
見覚えのある狭い階段を登っていく。
本当に彼女が今夜ここにいるかなんてわからない。
もしかしたら、
何も言わずに俺の前から姿を消したのに、
だけど確かめずにいられなかった。
ここ以外、今夜俺が過ごす場所なんてないのだ。
扉を開けるとあの時と変わらない風景がそこにあった。
カウンターに連なる様々な種類の男達。
そして、
ドラムを叩くジョー以外は、メンバーは違う顔だった。チャールストン調の乗りのいいリズムの中、
彼女を見失ってから3週間。
立ち見の客を掻き分けて進み、
ちょうど歌っていた曲が終わり、どっと拍手が溢れる。
クリスマスのせいか客は多く、祝いの酒で皆、上機嫌だ。
蘭と目が合った。
彼女は不機嫌そうな目で俺を睨みつける。
喜んでくれるんじゃないかと、
だけど、次の瞬間、
あの席だった。そしてそこには誰も座っていなかった。
ふらふらと席に付いた。
久しぶりに叩きつけられた飴と鞭の味。
シンバルの隙間からジョーが中腰で、
それが一層、
スタンドに取り付けてあったマイクを蘭は外した。
そして曲のタイトルを静かに告げた。
『summer time』
その言葉に、あの蒼い日々が駆け抜けていく。
ジャンルを問わず、
この歌を揺さぶるほどに人々の胸に刻み込んでみせた女性ボーカリ
ジャズならビリー・ホリディ、ロックならジャニス・
ドラッグジャンキーのなれの果てに、消えていった偉大な歌姫達。
その彼女達が魂の叫びのように歌い上げたこの曲を、
まるで、子守唄のように、スローペースで。
Summertime and the livin' is easy
(サマータイム‥生キテイクノナンテ訳ナイワ‥)
蘭は語りかけるように歌う。
ここに居ていいのよと、
甘くて、切なくて、胸が締め付けられるようなミリヒでの日々。
やばい、目の前がぼやけてきた。涙が溢れそうで…
そんな俺をあやすように、蘭の歌声は続く。
俺は目を閉じて聞き入った。
So hush little baby, don't you cry‥
(静カニネ、坊ヤ、泣イチャ駄目ヨ‥泣イチャ駄目‥)
いつの間にか歌い終わった蘭が、俺の前の席に座っている。
テーブルに置かれたタバコの箱を拾い上げて、
「イブなのにいいの?ここに来て」
「いいんだ、今、一人暮らしだし」
「…そう」
その事についてそれ以上何も彼女は問わなかった。蘭の横をジョーが横目で盗み見しながら通り過ぎていく。
肩を落としたその姿に責任を感じたが、
「あたし、かなり面倒な女よ、それでもいいの?」
蘭のその問いかけが信じられず、俺はしばらく放心していた。
「
「モルディブじゃなきゃ駄目?」
「なによあそこのどこが悪いのよ」
「ミリヒにはまた行きたいと思っているけど、モルディブは…」
蘭から視線を反らす。
元ダンナとの思い出の場所だからなんて俺の口からは言えない。
「ふふん。いいわよ別にモルディブじゃなくっても」
彼女の最初の含み笑いに、蘭の勘の鋭さを感じざる得ない。
「だけどあたしの南の島の条件は厳しいわよ。
蘭は条件とやらを並び始めた。
10分くらいの小さな島で
さらさらのホワイトサンド
蒼い空とシュノーケルが最高の海。
あ、海亀が見れるくらいのランクよと付け足してきた。
海に突き出す形の良いパームツリー。
大きなホテルは駄目で、
俺は冷や汗をかいた。
この条件をクリアした、
あるのか?そんなとこ?
そんな俺を笑いながら観察していた蘭が唐突に言った。
「ね?クリスマスプレゼント頂戴」
心臓が跳ね上がった。
だって、何もかもがめいっぱいで、
「ゴメン‥」
「あたし欲しいものがあるのよ、行きましょう」
「何が欲しいの?」
蘭の欲しがるものなんて想像も出来ない。
いつかみたいに連なって、狭い階段を駆け下りる。
「今日はイブだからまだお店やっているかもしれない。
「は?」
「それ買って、二人でゆっくり探しましょ」
ぽかんと階段の途中で立ち止まった俺に蘭はそっと唇を寄せた。
久しぶりに近くで感じる彼女の温もりに胸が熱くなる。
「くるくる回して探したら、きっと見つかるわ素敵な島が」
二人の時間が動き出した気がした。
だけど、蘭たちの愛ですら別れがあったように、
いや、先の事はわからないけれど、確かなことが一つだけある。
決して消える事の無い火種が絶えず俺の胸に宿っているという事。
それは、ずっと俺の胸の奥底でくすぶりつづける事だろう。
だって俺はずっと嫉妬し続けるから。彼女が愛して止まない、
その火種は彼女を求め続ける小さな炎にもなるだろう。
蘭が俺の手を引いて再び歩き出した。
風船みたいな地球儀を買おう。
そして今宵は悪あがきでも、それを眺めながら二人で探すんだ。
きっとあるはず。
たぶんあるはず。
モルディブみたいに心を揺さぶる、俺達の楽園。
(THE END)
提供:junbou@paradise