あたし達、どうして付き合うことになったんだっけ?
好きだなんて言葉もなかった。
淋しかったわけじゃない。退屈しのぎっていう程さばけていた訳でもない。
なんとなく居心地が良かったから…そう、それだけが始まった理由。
【小説紹介文】
彼氏 旅行 小説 無料 モルディブ マクヌドゥ
彼との境界線 (マクヌドゥ)
この場所だけに宿るその独特の蒼さ。深く深く胸の奥に刻まれたその色彩。
ただ違うのはあたしを見つめる瞳。あたしに触れる指の感触。
比べているわけじゃない。
だけとそれは事実。
彼との境界線 (マクヌドゥ)
「深く考えることないんじゃない?」
ハルはさらりとそう言って話を続けた。
「同じ島に行こうって言ってる訳じゃないんだからさ」
「ちょっと悪趣味かなって…前の彼と行った場所にあなたと旅行するなんて」
「そんな事気にしてたら恋人が変わる度に生活を変えなきゃいけないじゃん。好きな行きつけの店全部。そりゃ、相手の好みで違うトコにも行くけどさ」
悪びれもなくそう言葉を放つ彼を目の前に、あたしは自分がお堅過ぎるのかなと考えさせられる。
だけど…
前の彼に気持ちが残っている訳ではない。ただ、あの特別な場所に、違う男と再び訪れるという事に、何故か罪悪感が沸いてしまうのだ。
だけどその既に罪悪感を上回る感情があたしを蝕みはじめていた。アイランドジャンキーなんて言葉どこで耳にしたんだっけ? 一度あの環礁の風に包まれてしまうと、中毒のように再び触れたくなる。
モルディブ。インド洋の美しい島々。
だからって、誰と行ってもいい訳じゃない。海と空しかない素朴な島。他に必要なのは居心地のいい恋人の腕。あたしにとってはそういう場所だった。
ハルとはまだ付き合って半年くらい。一緒に旅行するのは初めてなのだ。あの楽園に出発するとなれば1週間以上は二人で過ごす事になる。少し不安だった。そんな思いにさせる掴み所の無いところが彼にはあったから….
お互い恋人と別れた夜に偶然出会った。皮肉にもハルとあたしを親しくしたのは、モルディブをお互いに知っているという事だった。不甲斐なく溢してしまったあたしの涙を見て、ハルは言った。
『本気って羨ましいよ…きっと俺、それを知らない』
あたしの終わってしまった恋をそんな風に羨む瞳で見詰めてくれて、救われた思いがした。優しいハルの眼差しに、どうしてこの人が本気に巡り合わないのか不思議だと思った。
だけど
あれから数ヶ月。こんな関係になってみて、少しその意味を垣間見る事が出来る。彼には独自のスタイルがあって、心の中の容量として恋人の場所というのが決まっているのだ。
ダイビングやシーカヤック、クライミングと彼は多趣味だった。そして職業はオーケストラに所属しているビオラ奏者。アウトドアの趣味に音楽三昧の日常。料理もプロ級の器用な彼に女の出る幕などほとんど無い。自分を楽しくするための一つのアイテム。彼にとって恋人とはそれくらいの位置付けのように見えた。
だったら、何故そんな男とあたしは付き合っているのだろうか? ただ、ひと言に言ってみれば、ハルはこの上なく魅力的な男だったのだ。その会話が、その知識の豊富さが、綺麗な顔立ちとアンバランスな男っぽさが…手に入らないという切なさも、彼を想う気持ちに拍車さえかけた。あたしは心は3つ年下のこの彼に惹かれていた。けれど、そんな事をおくびにも顔に出した事など無く、落ち着いた大人の女を彼の前で演じていた。
あたしって笑っちゃう程、負けず嫌いだったのだ。
きっと彼はあの楽園のリゾートでも変わらず自分を楽しませるアイテムを見つけ出すだろう。リーゾートにも寄らずあの楽園をダイビングサファリで1週間過ごした事のある男だ。もっとあたしを見詰めてよ…なんてあのロマンティックな海の前ではそんな言葉を漏らしてしまいだ。1週間も彼と一緒にいたら、クールを装っているこの仮面だって、剥がれ落ちてしまいそうで怖かった。
ああ、そうだこの匂い……懐かしい南国の少し息苦しくて甘ったるい、そんな空気に包まれてあたしはそれを深く吸い込む。じわじわと、肌に染み込んでくる独特のその湿度。嬉しさで眩暈さえした。暗がりの中にぽっかりと浮かんだ桟橋の灯り。
マクヌドゥ
それがこれから1週間、あたし達が過ごす小さな島の楽園。部屋に入ると、淡いライトの下でベッドがシーツの波と花びらでデコレーションしてあって、『Welcome』と書かれていた。
「壊すのもったいないね」
ハルはそう言ってちょっと恥ずかしそうに笑った。1周10分ほどのこのの島には、36部屋しかゲストルームがない。1棟2部屋の連なったコテージだが、つながっている部分はバスルームのため隣の気配は全く感じられない。
小さな小さなわらぶきの。楕円形のコテージ。あまりの可愛らしさにすっかりあたしの神経は思いっきり楽園モードになってしまった。
モルディブ時間で夜中の12時過ぎ。、4時間の時差の日本では早朝といえる時間だ。二人で手を重ねながら、ベッドトの上で眠った。こんな風に眠る事って日本じゃ珍しい。ハルは寝つきが悪い方なので、眠るときは広々と自分のスペースを取らないと眠れない性質なのだ。だから、同じベッドに眠っても、寄り添って眠るなんてことはめったに無い。
だけど、その日はそんな風に眠った。飛行機で疲れきった体を、癒しあうみたいに寄り添って。そんな温もりはあたしを深い眠りに導いてくれる。この島にハルと訪れた幸福感。それを噛み締めながら、ゆっくりと瞼を閉じてみた。
再びモルディブを訪ねる事に感じたうしろめたさ。だけど、こうして来てしまえば、さらさらと海にさらわれる白いパウダーサンドのようにその気持ちは流れていった。だって、これ以上の場所なんて知らない。もう手遅れなのだ。あたしは終わる事の無い恋に堕ちている。
この島々に。
この環礁に……
少ししか眠っていないのに早々と目が覚めてしまった早朝の白んだ朝日の中で、綺麗なまつげを伏せて眠る彼を見詰めながら、そんな事をぼんやりと考えていた。
いつも強がってカッコつけていた日常。その仮面が剥がれ落ちるのが怖かった。だけど、既にそれは、この朝日に照らされて溶け出しているような気分だった。
だから、ハルの髪に口付けてみる。ハルのおでこに口付けてみる。
そんな事をしている自分に驚いてしまう。
だけど、負けたなんて今は思わなかった。素直な気持ちで彼を見詰められる自分が愛しく思えるくらいだ。
あたしどうしちゃったんだろう…この島の空気が含む甘い麻薬が効いてきたのだろうか。
寝起きが悪くて、朝はいつも不機嫌なハル。起こしても起こしても、なかなか開かない頑丈な瞼の持ち主。だけど、すらりと伸びたその腕が、シーツの隙間からあたしを掴んで引き寄せたのだ。シーツの隙間はハルの体温とコロンの香りで包まれていた。
伸びた前髪の間から彼はあたしをのぞき込んできた。まだ薄暗い部屋の中であたしはその視線に照らしだされる。ハルはあたしの髪をひと束すくいあげてそっとそれに口づけた。真似するようなその仕草は朝のいたずらがバレている事を物語っていて、あたしは居心地が悪くてハルから視線を泳がせた。
そんな風にそらした視線の先…カーテンの隙間から青く揺れる海がこぼれている。
嬉しくて
懐かしくて
あたしはハルをベットから引っ張り出して、その誘うような色彩に向かって歩き出したのだ。
「遠慮しなくていいのよ」
島の様子を探索しに1周した後、コテージ前の木陰で椅子にもたれながら、ハルにあたしはそう言った。ライセンスがないから、あたしは一緒に出来ないけど、ダイバーの彼には海の下のモルディブもそれなりに満喫して欲しかったのだ。
「初めてのリゾートだから、まずはここを楽しんでからさ」
パームツリーの木陰に寝ころんで、のんびりと彼は言った。
「沢山エクスカーションがあるんだね。色々やってみたいよ」
ナイトフィッシング、アイランドホッピング、スノーケリングツアー。日替わりで用意された様々なツアー。それに参加して、遊び回るのもよし、何もしない贅沢を味わうのも素敵だ。あたし達はのんびりと、これから過ごすこの島での計画を、波の音すらささやかな、そんな穏やかな海を見詰めながら、のんびりと考えた。
こんな風に一日中ハルと過ごした事あったっけ? 休みが合うことはめったになかったから、夕ご飯を食べたり、一晩だけ一緒に過ごしたり。だけど、朝は慌ただしく仕事に向う。そんな感じだった。
あたし達、どうして付き合うことになったんだっけ?好きだなんて言葉もなかった。何度目かに会ったとき、なんとなく…そう、本当になんとなくあたし達は寄り添っていた。
淋しかったわけじゃない、退屈しのぎっていう程さばけていた訳でもない、なんとなく…居心地が良かったから。それだけが始まった理由…お互いに相手が特別な存在なんだと、そういう意思表示があたし達にはない。ハルからの誘いに、たまたま予定があって断りの返事なんてしてみれば、
「そうだね俺ばっかり独り占めしたら睨まれちょうよな」
なんて勝手に約束の相手がボーイフレンドだと思い込んでいるセリフが刺もなくすらりと出てくる。
…自分がそうだからあたしも同じだと思っているのだろうか?
彼のお気に入りのバーやレストラン。あたしはよく彼のガールフレンド達とすれ違う。
久しぶりね。
そんな甘い響きを含ませて声を掛けてくる女もいれば、挨拶もなく、すれ違い様に彼の頬に流れるような指先で触れてくる女も。
どの女も彼のルールをわきまえているらしく、ハルの隣にいるあたしの存在に気付くと、それ以上のいたずらを止めてちらりと値踏みをするような視線を投げると去って行った。
そんな時、一度だけ彼女達と視線を絡めた後、ハルはメニューに視線を落として、『今日はいいカキがはいったみたいだね』なんて何事も無かったように言うのだ。
あたしも?
ハルがガールフレンドといる時に鉢合わせしてしまったら、こんな風に後ろ姿すら見送ってももらえないのだろうか?彼の隣の席をリザーブすれば、勘違いをしてしまうくらいの甘い時間が約束されるというのに。
一度だけ立場が逆転した状況になった事がある。その時あたしがテーブルを囲んだその相手は同い歳の従兄だった。仕事の都合でシンガポールに何年も行ったきりだったが、久しぶりに出張で東京に来たからと、食事をすることになったのだ。
懐かしくて話が弾んだ。向こうの女性と結婚したんだなんて告白に驚いて、結婚指輪見せてよなんて、従兄の手を取ったときに、出口の方に向かう客の一人が、こちらを見ているのに気付いた。
ハルだった。
この店はハルのテリトリーじゃないのに。彼の隣には年配の男性がいて、一度だけ聴きに行ったハルのオーケストラの指揮者だと思い出した。あたしは壊れたビデオの映像みたいに何秒か身動きすらできなかった。
一瞬ハルが微笑んだみたいに見えた。目を凝らしてもう一度その表情を伺い知ろうとしたけれど、もうそこにハルは居なかった。
その後、会うことがあっても、ハルは何も尋ねなかった。だからあたしもそのことに触れる事はなかったのだ。
こんな関係でいいのかな?
求め合う言葉が無くても一緒に過ごす時間を重ねてきた。
ただそれだけ
ハルはあたしに恋人なんて言葉を使う事もあったけど…それはただの名称のように感じた。なのに、愛し合う二人にしか許されないような、甘い空気が漂うこんな南の島に足を踏み入れてしまったのだ。
「オラハリ島って無人島へのツアー、行ってみたいな」
「いいね、じゃあそれ予約しようよ。俺、ナイトフィッシングに行きたい」
宝島の地図でもあるかのように、エクスカーションの案内の紙を砂浜に広げて、二人で覗きこんでは、これから過ごす時間に胸を躍らせる。灰色に近い彼の瞳が子供みたいにキラキラと輝く。そして、その瞳のまま、楽しみだねってあたしに視線を移してきた。
息苦しくなった。
少しずつ少しずつ、だけど確実にあたしはそんな眼差しに溺れ始めているのだ。その瞳を見詰め返しながら、彼の気持ちを読み取ろうと視線の奥を探ってみる。けれど、わからないのだ。楽しそうにはしゃいだり、笑ったり、微笑んだり、そんな風に豊かに表情を表して見せても、あたしへの気持ちは、いつも読み取る事なんて出来ない。
ハルは目の前の穏やかな海のように、柔らかく流れるような視線で、いつもそんな風にあたしを見詰める。だけどそれが、この島の日差しのように火傷をしそうな熱を持っているのか、意外なまでにひんやりと、涼しい木陰のような冷たさなのか、その温度に触れることが出来ない。
この島のあたし達は、他のカップルと何も変わらないみたいに見えるだろう。笑いあって寄り添ってキスすらこの木陰で交わすことが出来る。
何が足りなくてあたしはその手を伸ばすのだろう?ハルの心に触れたかった。寄り添う腕も唇も、その温もりは甘く暖かったけれど、何かが足りない空虚感があたしをじんわりといつも包んでいた。
ハルの決められた恋人の領域。それを越えて求めたらあたし達は終わるのかも知れない。だからあたしは口をつぐんだ。足りないものはあっても、あたしはハルを愛し始めていたから。
…失うのが怖かったのだ。
「びっくりしたよ、振り向いたらおぼれてるんだもの」
「溺れているんじゃないのっ。下手ながらにも泳いでるんだってば」
シュノーケルの途中、足の届く砂地から一気にドロップオフになっているその境で、ハルは呆れたみたいに言った。
「バタラのドロップオフで見たっていう、マダラトビエイの話なんてするから、当たり前に泳げると思ってたよ…一体どうやって…」
ハルはそこで言葉を濁した。
「…そっか」と勝手に納得して、あたしの手を引くと、リードするようにドロップオフに向かって泳ぎ出した。
フラッシュバックみたいにほんの一瞬、前の彼の手の感触が頭をよぎる。前回の旅行でも、泳ぎが苦手なあたしを、昔の彼が手を引いてシュノーケルをしてくれた。
忘れるはずもない。深く刻み込まれたあの瞬間を。だけどそれは想い出。バタラの海の香りを染み込ませた。
ハルと繋がった指の感触があの時間を懐かしく思えるような、そんな優しい過去に変えてくれていた。
ありのままのあたしなんて、彼は受け入れてくれるのだろうか?年上の物分りのいい女…それが彼に見せていたあたしのうわべ。その抜け殻をこの島のどこかに捨ててしまったら、体も心も軽くなって、ハルをもっと感じられる気がした。
あたしを見詰める彼の眼差しの温度にもほんの少しでも触れられるかもしれない。