青い空、綺麗な海、白い砂浜、
最高に演出された女の子の憧れのハネムーン。
文句なんてつけどころがないくらい完璧。
贅沢な缶詰 (イフル)
*イフルがアンサナへ改装前のイメージで*
二日前、妻になった目の前の彼女は、
眩し過ぎる陽ざしの中で、彼女の肌はシミひとつない。
ただほんの幾つかのホクロが、
モルディブ。
ずいぶんと昔、何かの雑誌で目にした事があった。
でも、何もない秘境のイメージだったそれと、
よく出来ていると言ったらいいのか。
生い茂った緑と、それに続く美しい海の上で、
それは素晴らしくゴージャスで、だけどナチュラルにさえ見える。
目の前の彼女との結婚は、あまりにも急な話だった。
仕事のスケジュールの調整と結婚式の準備に追われ、
だから、サロンの受付を任せている志保に何か探して、
『普通こういうのって、
そう言いながらも、面白そうだと思っているのだろう。
本当の嫌味を口にする時の、
そして志保が抜粋した幾つかのプランの中からモルディブという単
『カフェの注文じゃないんだから』
志保は苦笑いをした。
『余分な仕事を頼んじゃったから、お礼をしないとだな』
冗談半分で言った。
『じゃあ、コウさんの残り少ない独身の夜を一晩』
志保は誘うような上目遣いで、微笑んでみせた。
怪我で三ヶ月休みをとっているスタッフの代用の臨時雇用。
春には結婚の予定があるから、
自分の価値に自信がある、
彼女の薬指にあるエンゲージリングを一瞥し、その瞳をのぞき込む。
『彼から貰った婚約指輪をはめたまま?』
『ふふっ、何を今更、手切れ金代わりですよコウさん』
志保とのこんなさばけた関係が気に入っていた。
だが、そろそろ潮時だ。身辺は綺麗にしないと。
独身最後のアバンチュールを俺は堪能した。
その夜の志保と、
……悪趣味だな、俺も。
ただ、
彼女とは二人きりで話をした事さえ、数える程の関係なのだ。
完璧にバランスの取れたシルエットがパレオの柔らかな布越しに見
どうして、俺なんかと……。
国内外に30店以上のヘアサロンを経営し、
そのオーナー社長の愛娘。
母親はオートクチュールコレクションの
二年前独立してやっと自由が丘で美容院を構えただけの自分に、
確かにKUSUMOTOにいたあの頃はトップスタイリストとして
賞をとったり、
カリスマ美容師などと、もてはやされもした。
東京で一旗揚げてやる。
だが鹿児島から美容師目指して上京してきた俺と、
違和感を感じずにはいられない。
しかし楠本オーナー自ら申し入れがあったのだ。
最初はとんでもないと丁重に断わった。
だが、オーナーが再び訪ねて来て、こんな俺に深々と頭を下げた。
俺ってそんなに彼に目をかけてもらえていたのか? 今までそんな素振りなど見たこともなかったが。
愛がなければ結婚出来ないなんて主義でもない。
楠本氏と親戚になるメリットを考えれば、
結婚式は親しい人間だけで、大袈裟にはしなかった。
招待された面子を見れば、
映画監督、指揮者、落語家。
どれも仕事絡みの人脈ではなく、
招待客の皆が、
先日アカデミー賞にノミネートされ話題をさらっていた気難しいイ
『良かったな、まさか百合が本当に結婚するとは思わなかった』
……ちょっと気になる台詞だ。『まさか』
隣に佇む花嫁は、文句の付け所がない程に若く美しく健康そうだ。
『まさか』ってどういう意味なのだろう?
疑問が頭をかすめたが、
少し島の様子でも見ようかと百合を誘うと、
その仕草に少し気怠さを感じ、疲れているのかなと思わされた。
いや……やはり、北欧とかの方が良かったのだろうか?
温室育ちのお嬢様には、
長い桟橋を渡りその先に足を進めると、
日本人っぽい。陽ざしにでもやられたのだろうか。「大丈夫?」
少しの沈黙の後、その彼女は顔を上げた。
目が泣き腫らしたように真っ赤だった。
見覚えがある。昨夜、
彼女は「予約したタイプの部屋が取れましたか?」
ああ、
「どうしたの、何かトラブル?」
今まで黙って様子を見ていた百合が、そう問い掛ける。
その彼女が言うには、
「ハネムーンだからって高かったけど、
半年前から?
志保がわずか二週間前にここを押さえられたのは、
それとも他のコテージの数倍という金額のせいだろうか。
水上コテージの中でもひときわ特別に作られた、
「とにかくショックで……彼が今、交渉に行ってるんですけど、
よほど不安なのだろう。
「あたし、フロントへ行ってホテルの人と話をしてくるわ」
百合はそう言うと、その子の肩に手を添えた。
「コウさんは、先にバーでビールでも飲んでいてね」
優しい所あるんだ……なんて思いながらも、
海に突き出したように作られたビーチバー。
昼間から潮風を受けながら飲むビールは、
あぁ、旨いな。こんな旨いビールは久しぶりだ。
さっき泣きべそをかいていた子の、青い顔がふと浮かんだ。
可哀想に、あの子……。だけど、ここに来るのが、
仕事にばかり囚われていて心が錆びつき、
昔、目にした雑誌の一頁と変わらない海。
目の前に広がる何処までも蒼い空。
美しいなと思う。綺麗だなと思う。
だけど今、喉を潤したビールほどの感動さえわいてこない。
昔はこんな自分ではなかったと思う。
高校卒業から上京するまでの合間に、
姉のいるバンコクからあても無くザックを背負い、
時には野宿なんかしながらのんびりと見上げた空。
胸を打つその色を俺は忘れてしまった。
きっとモルディブの空と変わらない美しさだったのかもしれない。
だけど、再びその鮮やかな風景を目の前にして、
悲しかった。
「……さん」
何度か呼ばれていたようだ。はっとして顔を上げると、
「じゃ、行きましょうか」
「えっ、何処に?」
「ボートで少し行った所に、素敵な島があるらしいわ。今、
さっき、つまらなそうに本を読んでいた彼女とは別人のような、
「桟橋に、ドーニを用意してもらったから行きましょう」
まだこの島すら歩いてもいないのに? その言葉を喉元で飲み込んだ。
自分が座っているバーから桟橋は見て取れて、
「わかった。じゃ、行こうか」
本当は少し面倒臭かった。昨夜遅くにこの島に到着し、
他の島を巡るのも悪くはないが、
だけど、その思いを隠し百合には微笑んでみせる。
「楽しみだね。どんな島かな?」
乗り込んだドーニが桟橋を離れた時、
さっき泣いていた子だ。彼と一緒に何かを叫びながら、
遠目にもさっきとは違い、何かを喜んでいるのが見て取れた。
船が進むにつれ、どんどん小さくなっていくハネムーナー達。
また後で会えるのだから、
「さすが、君の交渉は成功したみたいだね」
「ええ、すごくいい方向でね」
満室だとい客室をどのように空けさせたのか?
百合は青山で小さなギャラリーを運営している。
美大を出て絵が好きだという趣味も兼ねているのだろう。
お嬢様らしい職業。
自分の足で発掘した若き芸術家達を、彼女は売り出していた。
さすが父親の血は引いてはいるのだろう、
三十分くらい乗っただろうか、ドーニは着いた。
先程まで自分がいた島とは随分と雰囲気が違う。
それに妙に静かだ。ビーチに人影すらない。
リゾートらしい建物はあるので、無人島という訳ではないようだ。
「気に入った? 少し島を散歩しましょう。小さな島らしいわ」
脱いだサンダルをブラブラと持ちながら、
それは本当に小さな島だった。
フロントらしい建物も、レストランもバーも、
装飾は簡素だが、絵葉書のような南の島らしい雰囲気。
水上コテージがないせいか、取り囲む海も広々と伸びていた。
だが施設の全てが、だいぶ使い込まれた年季を感じさせる。
ドアノブは少し錆び付いていたし、
不思議な事にゲストにもスタッフにも誰にも会わない。
狐につままれた気分のまま、あっという間に島を一周していた。
さっき船を着けた質素な桟橋。
だけどそこに居るはずのドーニの姿が見えなかった。
そして代わりに、信じられない物がポツンと置いてある。
見覚えのあるトランクがふたつ。あと、
「えっ、これって」
クエスチョンマークがグルグルと脳内を駆け巡るだけで答えが見つ
「この島ね、三日前にリニューアルの為にクローズしたらしいわ。
ああ、だから手品のように誰もいないのか。
……いや、そんな事を納得している場合じゃない。
何故、俺たちのトランクがここにあるのかと聞きたいのだ。
「あたし達、夫婦になったのにお互い何も知らないままだから、
「だって食料は?」
その台詞に、百合の視線が桟橋の発泡スチロールの箱を指した。
「コックは?」
呆れたような溜息と共に、百合は腕組みをして俺を睨みつけた。
「二人きりだって言ってるでしょう? 三日前まで動いていたリゾートだから何でもあるわよ」
あの俺達のコテージは? と心に浮かんだが、その言葉を飲み込んだ。
結末が見えたから。
だけど、それを見透かしたように、百合はこう言ってくれたのだ。
「あのハネムーナー、結婚式が同じ日だったの。偶然よね。
出発前にホテル代は支払済みなのだ。
式の費用はあちらが持つと譲らなかったので、
いくら俺が稼げるようになって少しは余裕ができたとはいえ、
あの二人にプレゼント……。こんな、コックもいない、
「あら、勝手な事してあたし嫌われちゃったかしら。でも、
百合は俺と結婚したくなかったのだろうか。
親が勝手に決めた結婚だから、
「誰にも邪魔されずに、お互いをじっくり知り合いましょうよ」
嫌味とも何とも図りかねる彼女の台詞を、ただ呆然と聞いていた。
色々な事がありすぎて、疲れ果てていた。
少し横になるつもりが、
今、何時だろう? ベッドサイドにあったであろうライトを手探りで探し、
白い壁に囲まれた質素な室内がぼんやりと視界に入ってきた。
あの水上コテージが五つ星なら、
少しガタのきたバスルームの扉を開ける。
まだ重いこの体を熱い湯に浸かって癒したかった。
だけどそこにあったのは……トイレだった。
あれ? 間違えたと、そのまま扉を閉めた。
だが、どう見てもこのベッドルームには、
嫌な予感がして俺は、馬鹿みたいに再びその扉を開けた。
トイレというには少し余裕がある空間の中を探すと、
かなり落胆した気持ちを取り直して服を脱ぐ。
蛇口を捻るとチョロチョロと勢いのない、
水上コテージにあたりまえのように付いていた円形のジャグジーが
何故、こんな事に……。
南国といえども、日が沈むと涼しいくらいだ。
快適とは程遠い時間をなるべく早く切り上げて服を着替えると、
外灯は全て消されていて暗く、足元さえ見えない。
百メートルくらい先だろうか? ぼんやりと明かりが見える。
確かあれはレストランがある場所だ。
その明かりを目標に、闇の中を泳ぐように進む。
「わっ!」
思いっきり転んで、顔が砂まみれになっていた。
ジャリッと口の中に嫌な違和感。
しかも、
放心したように、その場から立てなかった。
この俺が転ぶなんて。
しかも、
イライラした。仕事柄、お客様に合わせ、
だから、
あの明かりの下には百合が居るに違いない。
そう気を取り直して深呼吸をすると、
転んだなんて、みっともなくて絶対に悟られたくない。
レストランから明かりが漏れている場所まで来て、
少し出血してはいるが、たいした事はないようだ。
すっかり腹も減ってしまった。百合は椅子に座ったまま、
後ろから忍び寄り、ご飯は何かなとテーブルの上を覗いて見て……
百合が一心に作業していた事、
三つほど開いたツナ缶やら何やらが並べられていて、
一週間この島にいる間ずっと、この缶詰の山を食えというのか?
「あら、目が覚めた?」
俺は百合の顔を見ずに缶詰を見ながら呟いた。
「これって……」
「あ、ゴメンね。まだ御飯作るの途中なの。
ご飯を作る? この女はこれが料理だと思っているのだろうか。
限界だった。怒りで体が震えているような錯覚がする。いや、
そのくらい、俺は頭にきてしまった。
「……いい加減にしろよ」
その震えを押さえ込むかのように、
「アンタのお陰で散々だよっ」
百合に対する言葉遣いに、自分でも驚いた。
だけどもう止められない。ドクドクと体中を、
「俺と結婚したくなかったなら、しなければ良かっただろ? こんな嫌がらせをしてアンタ楽しいの?」
睨みつけるつもりで百合に視線を移す。彼女は、
「やっといい子ちゃんを止めたの? いいじゃない。そうでなくっちゃね」
見透かすように直視してくるその視線に耐えられず、
この女は何を言っているのだろう。
コイツはただの箱入り娘とは違うのだろうか。
「あたしね、うわべだけ取り繕っているのって退屈なのよ」
今までの俺を否定されたような言い草に、
こういう女は口が達者なのだ。
とにかくもう話すことなんて何もない。
殴り倒してしまいたい衝動を必死に堪えて、俺は踵を返して、
最悪だ。あの時映画監督が言っていた言葉……。
『良かったな、まさか百合が結婚するとは思わなかった』
こういう事なのか。
金持ちで美人で健康だが、
とんだ貧乏くじだ。
歩いているうちに、
どれでもいいや、と適当に選んで、
俺はさっきと変わり映えのない部屋で、
足の傷口に砂が入り込んで、ズキズキと痛んだ。
その痛みがこの状況を現実なのだとサインしているようで、
物音がしたような気がして、また暗闇の中で目が覚めた。
さっきの出来事は夢だったのだろうか? デジャブのように同じ動作で、ベッドサイドのランプをつける。
いい匂いがした。空腹感を刺激するような。
ベッドの隣にある質素なテーブルに、
スープはまだ温もりがあった。足に違和感を感じ覗き見ると、
頭が真っ白のまま、とにかく我慢出来ずにサンドイッチを頬張る。
開けてあった缶詰のソーセージやツナ。
スープも……。
ガツガツと2.3個食べたところで、
怪我をしているのが何故わかったのだろう? 少し足を引きずっているのに気付いたのだろうか。
さっきの彼女とのやり取りが頭に浮かんだ。
情けなかった、自分自身が。
転んだ事まで彼女のせいにして、腹を立てて自制が効かなかった。
シャワーが冷たい。服が汚れた。缶詰が気に入らない。
俺はいつからこんなちっぽけな人間になっちまったんだろう?
朝が近づくと太陽の光で、暗闇にじわじわと色彩が浮かび始める。
小さなコテージのテラスにあるベンチ式のブランコに座り、
夜は闇に紛れ、波の音だけで存在を主張していた海も、
それはまだ白んでいる空の色を、鏡に映しているかのようだった。
百合はどのコテージで眠っているのだろう。
やはり気になってどこかに彼女の痕跡がないか探し初めていた。
レストランから程近いコテージの前に、
カーテンは閉められていて様子はわからないが、まだ明け方だ。
そのままレストランに行ってみる。
ガランとした無人の客席。
ほんの数日前までここは、人で溢れていたのだろうか。
それとも時代に取り残された、
足元に落ちている、ロゴが印刷されたコースターを拾いあげる。
【Ihuru】この島の名前だろうか、イフル?
卵なんて割るのは久しぶりだ。
だだっ広い厨房のガスコンロは勝手が違って少し苦戦した。
二人しかいないのだから、俺が朝飯を作ったって、
昨夜の失態が後ろめたくて、何かしなくては落ち着かなかった。
もしかしたら百合とは、このまま別れる事になるかもしれない。
そんな事も頭をよぎった。
だけど別れるっていったって、
それなのに夫婦だなんて……元々俺達は不自然すぎるのだ。
「おはよう」
少し眠そうな仕草で、百合がレストランに入ってきた。
素顔の彼女。
いつもよりさらに若く見えた。
改めて彼女の素の美しさに驚かずにはいられない。
素肌にスリップドレスを羽織っただけの8つ年下の百合に、
「なあに? 何か付いている?」
「いや、おはよう」
「わあ、美味しそう」
トーストとあり合わせのサラダとオムレツ。
こんな朝食を、彼女は素直に喜んでくれた。
昨夜はゴメン。
その言葉を何度も何度も口にしようとしたが、
そんな風に躊躇していると、百合の方から切り出された。
「足、どう、痛む?」
「いや、もう平気」
「そう、よかった」
俺ってかっこ悪すぎる。どうして彼女相手だと、
日本にいる時は、あんな歯の浮くような台詞で、
『うわべだけ取り繕っているのは退屈なのよ』
昨夜、彼女が口にした台詞。
百合には俺の口説き文句なんて、鼻であしらわれそうだ。
それが怖くて言葉が出ないのか? だったら素直に昨夜の事を、せめて謝ればいい。
でも、それさえも出来なかった。
ただ向かい合って俺たちは、黙々と朝食を済ませた。
「そうだ、頼みたいことがあるの」
「何?」
「ヤシの木陰でお願いしようかな」
彼女はそう言うと、微笑んで立ち上がった。
意味がわからないまま、
このまま『さようなら』
彼女の頼みとやらを卒なくこなし、
海に突き出したヤシの木の隣で、百合が俺に差し出したもの……そ
彼女の行動は全く予測がつかない。
百合はパレオを砂の上に敷いて、その上にちょこんと座った。
「じゃ、バッサリといっちゃって」
そう言うと、ピン1本で結っていた髪を解き放った。
背中まである柔らかで豊かな黒髪。
男が目を奪われずにはいれない、
バッサリ?
……いけない。思考回路が止まっていた。
だけど回転しだすとこの状況の異常さが浮き彫りになってきて、
まさかな? 髪は女の命って言うもんな。
「思いっきりショートにしちゃって」
「嘘だろ?」
「ほら、早く!」
こんな綺麗な髪をバッサリ切る? しかもこんなハサミ(シザー)で?
「貸して」
まったく先に進まない俺の手から、百合はハサミをもぎ取ると、
そしてなんの迷いもなく首の辺りでパサリと切り落とした。
パレオの上に落ちた髪が、優雅な曲線を描いて力なく横たわる。
「こんな感じで、ね」
この状態で終わりに出来るはずもなく、
何だか悲しかった。
まともな精神状態でこんな事が出来る女がいるのだろうか?
俺は集中して作業をした。
いくらカリスマ美容師の看板を背負ってた俺だって、カットシザー
せめてお手本にと、古いフランス映画で、
"勝手にしやがれ"のジーン・セバーグ。
白黒の写真だけで21世紀の男をいまだに堕とせる銀幕のヒロイン
首に付いてしまった髪の残骸を、綺麗に払ってあげる。
「終わったよ」と声を掛けると、百合は立ち上がった。
さっきと同じ服を着ているのに、まるで別人のようだ。
我ながら上出来じゃないか。
思わず自分の傑作に、手を伸ばしてゆっくりと触れてみる。
短くなった髪は綿帽子のようで、柔らかい子猫を連想させる。
百合は俺の指の感触を楽しむかのように、
初めてこんな風に彼女に触れた。
俺は馬鹿みたいだ。ドキドキしているなんて。
その胸の響きが懐かしくて新鮮で心地良くて、
だけど、彼女はゆっくりと瞳を開くと、俺を突き飛ばした。
なんて乱暴な女だ。嫌なら止めてくれと口で言えばいいのに。
俺はそのあまりな不意打ちによろけて、尻餅をついてしまった。
その足元で見下すように俺を睨みつける百合は、
獲物にとどめを刺しにゆっくりと、
陽ざしを遮って俺を覗き込む瞳。
あぁ、俺の目の前にジーン・セバーグがいる。
スクリーンの女優と同じ、セクシーでキュートな笑顔を作ると、
そして、何事もなかったかのように、
「誰もいなくて、静かで、あたし達だけの空みたいね」
そう言って彼女は、海との境界が曖昧な、
もう何もかもが彼女のペースで、とにかく俺はもみくちゃだ。
女らしい髪。
あれを切り落としてしまったら、
だけど、首元から潔く髪を切り落とした彼女は、
その変貌に思いっきりカウンターパンチを食らった。
あのキスを境に、
珊瑚が透けて見えるあおいゼリー色の海。
太陽をぶら下げ様々なブルーを織り混ぜた空。
白い砂浜に群れるヤシの木のジャングル。
何の違和感もなく、島の情景に溶け込んだ質素なコテージ。
……そして、彼女の睫毛が落とす黒い影。
この島と彼女の美しさに、俺の心は堕ちてしまった。
昨日まで舌打ちをしたいくらい、俺にとって価値がなかったもの。
だけど、それは一瞬の魔法で甘美な火照りに変わった。
何かに感染したように熱を帯びていく。
あの、ぬるいシャワーを今浴びたら、
あの映画監督の言葉。
『まさか百合が本当に結婚するとは思わなかった』
彼女は奔放で気まぐれで魅力的で、
少し頭がおかしいのかと思う程の危うい事も笑ってやってのけ、
確かにこんな女、見た事もない。結婚など向いている訳がない。
俺は幸運なのだろうか? 不幸なのだろうか?
もっと彼女の毒に侵されてしまったら、
ジャンキーのように彼女に分け与えてくれと懇願するような、
『病める時も健やかなる時も、
三日前の結婚式のありきたりな台詞。
今更にあの台詞が、
彼女は他の誰の物でもなく、俺だけの妻なのだと。
椰子の葉が作る隙間だらけの日影で、
あのゴージャスなスイートコテージで不機嫌そうに本を読んでいた
彼女はこのイフルにすっかり溶け込み、美しい島さえも、
恐る恐る壊れ物を扱うように、彼女の髪に再び触れてみる。
あの胸の切なさが再び込み上げてきた。
だけど、俺はもう我慢なんて出来そうにもない。
改めて彼女が自分の妻なのだと意識すると、
「ね、海亀の話をしてよ」
俺の視線をはぐらかすように、
「ウミガメ?」
「間違ってバイクのライトに……ってやつ」
「え? その話」
「いいから、ねっ」
百合が俺の腕にその指を絡めてくる。
どうしてこの話を彼女が知っているのだろう?
疑問が残ったが、そこまでおねだりされている事に気を良くして、
「高校生の時、
百合は、笑いを堪えた表情で耳を傾けている。俺は話を続けた。
「本当は生まれると、月明かりを頼りに海に向かうはずなのに、
それから……どうしたんだっけ。
「ライトを消して……でしょ」
百合が助け舟を出してきた。そうだ、ライトだ。
「俺は慌ててバイクのライトを消して、
百合は満足そうに俺の腕にオデコを当てて、
キツネにつままれたような気持ちで彼女を眺める。
「ね、あたしが14の時、忘れちゃったでしょ、
「……覚えてるさ……」
逆に、百合が記憶していることに驚いた。
10年前、確かに俺たちは数時間だけ一緒にいたことがある。
あれは……そう、まだ
撮影のため横浜にいるが、
オーナーの娘? 撮影? 送迎?
意味が飲み込めずに戸惑う俺に、
salon de KUSUMOTOの広告塔。十代半ばの少女。
陶器のような肌。
あどけない唇と対照的な大人びた眼差し。
KUSUMOTOの広告はいつもこ
オーナーの娘なのだとは、その時まで知らなかった。
思い出してきた。
繰り返し響くシャッター音に包まれて少女は回転木馬に座っていた。
野花を描いたふんわりとしたワンピース。
田舎から出てきてまだ三年たたない俺には、映画のワンシーンのように映った。
木馬が回る。
撮影スタッフの邪魔にならないよう少し離れた柵の外で
木馬に乗った少女が近づいてきた。無表情で大人びた眼差し。
“わっぜえ可愛いかねぇ”
無意識に鹿児島弁で小さくつぶやいてしまった。
あ、やばい、多分聞かれた。
目の前を通りすぎる彼女がぷっと吹き出したのだ。
田舎者だと思われたと、顔から火が出るくらい恥ずかしくなった。
花がひらいたような笑顔に、シャッター音が繰り返し刻まれる。
「コウさん、撮影の後、
あれから十年が過ぎて、大人になった百合の昔話に、己の
「あぁ、でっかな観覧車……」
横浜の象徴でもある観覧車は都会を動かす大きな歯車のようだった。
美しい少女と観覧車で何を話したのか、慌てた感情以外記憶なかった。
「観覧車のなかであのウミガメの話を聞いて、
「そっか、よく覚えていたねあんな話」
「だって、ところどころ鹿児島弁が混じって、
「もう東京出てきて十五年近いから。
「ですです?」
「そうです、って意味」
プッと百合は吹き出した。回転木馬の少女の面影を忍ばせた笑顔。
「でも、あの時ほんの二時間くらい一緒にいただけの二人が、
俺の問いかけに、百合は意味ありげな視線を投げてきた。
「だって、パパに見つかっちゃったのよ」
「なにを?」
「あたしの秘密」
ヒミツ? 話の行く先がつかめず黙って彼女の話の続きに耳を傾ける。
「だって気に入っちゃったんだもの。
ネタ? やはり話の行く先がつかめずさらに黙って彼女の話に耳を傾ける。
「こないだパパがお見合いの話なんて持ってくるから、
「秘密基地って?」
「ほら、
「は?」
「パパったら腰を抜かしちゃって、あの、
そうだ、アカデミーにノミネートされた彼の作品は……ストーカー
「
思わぬ指摘に胸が跳ね上がる。バレていたのか。もしかして、
「パパが最初、断られたってうなだれて帰ってきたから、
「なんで俺なんか……」
「だって14歳にして初恋だったんだもの。なんでかわからない、
「わくわくって…………」
ちらちらと視線を泳がせながら、この告白に、
「あたし、素直じゃないから……随分生意気な女だと思ったでしょ
いつも強気で睨みつけるような眼差しの彼女が初めて見せた羞恥心。
俺は放心したように百合を見つめた。
意外なまでの彼女の態度が、俺に余裕をくれた。
今までずっと振り回されっぱなしで、
「火遊びは終わらせてきたよ、
「……うん」
少し不安げに揺れる百合の瞳を見て、小さな罪悪感が沸き上がる。
KUSUMOTOのエントランスを飾る少女のブロマイドが、
あぁ、あの時の少女だと思うこともあった。
生まれながらのサラブレッドの気品に圧倒され、自分は所詮イミテーショ
劣等感と羨望。
絶対に手の届かない都会の花。
だけど、百合が、
それもこんなにも長い歳月。
確かに不自然なほど性急な結婚で俺達には足りないものがたくさんある。
でも、彼女にここまで想われて堕ちない男がいるだろうか。
「……けしんかぎい(精一杯)あなたを大切にします」
素朴な故郷の言葉で、わきあがる素直な気持ちを口にした。
桜島を抱く鹿児島の男は、覚悟を決めたら熱く真っ直ぐだ。
すでに妻である女性へ捧げる初めての愛の告白。
可愛いストーカーが、もっともっと俺に囚われて、
極上の水上コテージで、あのハネムーナーもこんな甘い時間を過ごしているに違いない。
だけど俺が必要だったのは、こんなにも何もない贅沢。
その意味をこの島に教えてもらった。
誰もいない二人だけの島。
車の音も雑踏もサイレンも、携帯の着信音も何もない。
お互いを知っていく喜びに身を任せるだけのひと時。
きっとまた来る。そう思った。
次は二人で島選びからちゃんと始めなくちゃな。
日が高くなってきた。
キッチンの棚に並んだキャンベルの缶詰を思い浮かべる。
ビーチの木陰にテーブルをセットし、
横で寝転ぶ百合を見つめながら、ランチのメニューに思いを巡らせる自分をまるで主婦のよう
そして何もかもが鮮やかなこの島を、
【THE END】