夕暮れに染まるワインレッドの海。ぽつりぽつりと星の輝きが浮かびだしてきた。水着のままのんびりと、散歩がてらに島を一周二人で歩いてみる。
船着場とは別の桟橋に水上コテージが並んでいた。ロマンチックを絵にしたようなプライベート感たっぷりのコテージ。桟橋の途中で魚を見ていたヨーロッパ人のカップルが、この雰囲気に溶け込むようなキスを交わしていた。幸せそうにはにかむ彼女の頬を、恋人がそっと包みながら何度も口付けを落とす。
恋愛映画を眺めているような気分になった。
日本でこんなシーンを目にしたら、見てはいけないものを覗いてしまったような気分で、きっと目をそらして立ち去るだろう。けれどもこの島では、誰もが夕日のスポットライトを浴びて、こんな情熱的な場面を演出している。まだ、目の前のカップルなんて控えめなほうだ。
「本当は水上コテージを予約したかったんだけど、満室でさ」
ちょっと申し訳なさそうに了は言った。
「あたし船酔いするタイプだから水上コテージだと眠れないかもしれないし、それにあたし達のコテージ、ジャングルの中の小屋みたいで素敵じゃない?」
そうさりげなくフォローしたあたしの言葉に、了は少しほっとした表情を見せた。了がこんなふうに気を使って、準備をしてくれていたという事が嬉しかった。そしてこの島で一番シャイな恋人同士の役を演じるみたいに、手をつないで再びゆっくりと歩き出した。
瞳はいつから気付いていたのだろうか?だけどあたしに対する彼女の優しさは変わる事がなかった。会社で一緒に受付に立っていても、さりげなく、そそっかしいあたしのフォローすらしてくれた。
ごめんなさい。
もう終わりにするから…
あと一度だけと心の中で繰り返しながら、離し難い了の温もりに溺れていた。
『俺、瞳と別れるから』
待ち合わせのカフェで突然了がそう言い放った。
『別れる相手、間違ってると思うけど…』
『…いや…』
ナニヲイッテルノ?
彼なりの愛の告白とも言える、あたしを選ぶという意味の短いその台詞。あたしは呆然と言葉を失って…ただ、黙りこくっていた。
ヤメテヤメテヤメテヨ
あたしの何が彼女に勝っているというのだろう?瞳に愛された10年の重みをこの男はわかっているのだろうか?
そんなあたしの思惑を見透かすみたいに彼は言った。
『瞳に愛されている事がただ心地よかった。それに甘えていた。だけどこんなに時間を重ねてもあいつと同じ気持ちになれないんだ。不満なんて何もないのにな』
目の前には口も付けられずに冷めていくコーヒーが並んでいる。あたしは指を伸ばしてカップに手を添えた。血の気が引いた指先がちりちりと痺れて、カップを持ち上げることすら出来ない。
『理由なんてないんだ。ただ樹里に惹かれた…こんな気持ちが俺にあるなんて…そういう感情に欠けた人間なんだろうって思ってたから..嬉しかったんだ』
言葉が出なかった。何か言わなくては。あたしに向けられる了の眼差し。瞳もいつも真っすぐに彼を見つめていた。後ろめたさと罪悪感で、あたしだけが顔も上げられない。
こんなあたし、愛される資格なんてないでしょう?
週明け、連絡もなしに瞳が出社しなかった。彼女が無断欠勤なんて…携帯にもアパートにも電話をしたがコールが響くだけだ。
胸騒ぎがした。
了の携帯に電話をしたが留守伝で、会社の電話に出たアシスタントの女の子には、急な会議の為に日帰りで、朝一番で大坂に出かけたのだと告げられた。
あたしは、すがる思いでヒロに電話をかけた。
夕べ、一緒に飲んでたんだよとヒロは言った。
『了と別れたから一杯付き合ってよなんて言われてさ。泣かれるだろうなって慌てて出掛けたんだ。合コンとか行った事ないから、そんなふうに今更遊んでみるのもいいかもなんて、あいつケロッと言っててさ。了の事も、自分の友達を好きになったなんて、頭にきたけれど、横ビンタ2.3発くらわしたらすっきりしちゃったなんて…笑ってたんだけど…』
了は本当に瞳に話をしたんだ。
貧血みたいにあたしはその場にしゃがみこんでいた。
『…俺…馬鹿だ。平気な訳ないじゃんか』
これから瞳のアパートに行くというヒロに『あたしも』と答えて電話を切った。
ヒロのが勤めている弁護士事務所は瞳の部屋と同じ沿線だから彼の方が先に着くだろう。早退すると同僚に告げると、着がえもせず受付嬢の制服のまま会社を飛び出した。青山から地下鉄に飛び乗ると、走ったせいで息が上がって吐き気がした。
もう決して了に会わないと彼女に誓おう。あたしが一方的に好きになって無理やり誘ったのだと。だから了と別れる必要などないのだ。目障りなら会社も辞めるから…自分が目茶苦茶にしておいてこんな事を望むなんて茶番だと呆れられるだろう。だけど、悪戯が過ぎて大事なものを壊してしまった子供のようにあたしは途方に暮れていた。
お願い…二人、離れないで。
だけど瞳のアパートに向かう最後の角を曲がった時、あたしは目の前の光景に愕然とした。目に飛び込んできたのは救急車。担架に横たわった瞳が車内に運び込まれているところだった。後ろにヒロが青い顔で付き添っている。転びそうになりながら彼に駆け寄る。
『指突っ込んで薬吐かせたし、意識も少しあるから…』
『薬って?ねぇ薬って…』
ヒロは青い顔で言った。
『あいつ…眠剤飲んでた。医者から貰ったのため込んでたらしい』
ヒロは握りしめていた診察券をあたしに見せた。メンタルクリニックの文字が目に入る。
『搬送先決まりましたから行きますよ!』
救急隊員の声に、ヒロは救急車に飛び乗った。あたしは病院の名を聞いて後からタクシーで向かった。
病院の待合室であたしは身動きもせずじっと1点を見詰めて座っていた。何時間もそうしているあたしを、周りは精神科の受診患者だと思ったかもしれない。救急車に運ばれる時に覗いた、瞳の青くて透けるような白い顔が何度も何度もフラッシュバックする。
瞳みたいになれるかなんて…なんて馬鹿な夢を見ていたのだろう。お姫様どころじゃない。あたしは…毒りんごを運ぶ醜い魔女を演じていたようなものだった。あたしに似合いの役だ。
椅子に繋がれた罪人のようにあたしはうな垂れて床のタイルを、ただぼんやりと見詰めていた。
どれくらいそうしていたのか。窓から差し込む日差しは夕日を帯びて、ガランとした待合室のベンチの影を長く伸ばしていた。
『明後日には退院できるって』
いつの間にか隣に腰を下ろしたヒロがコーヒーの紙コップを差し出している。
『…よかった』
張り詰めていた糸が緩み、体の力が抜けた。受け取ったカップの中にぽたりと落ちた涙が、弧を描くのが、ぼやけた視界に映っていた。
『瞳、君と二人で話がしたいって』
病室の白い壁に白いベッド。こんなにも質素な部屋でも、そこに横にたわる瞳は、燐と咲く百合のようだ。眠っているのだと、音をたてないようドアをそっと閉じると、ギシッとベットが軋む音が響いた。振り向くと瞳は半身を起こして、両手を膝の上でそっと添えている。
『今日は…迷惑掛けてごめんなさいね』
あたしは首を横にふった。
『…あたしが仕掛けたの』
口にしようとした台詞。だけどその声の主は瞳だった。
『最初会わせた時から、了があなたを追いかけ始めたの気付いていたのよ』
瞳は微笑んでさえいた。息を飲むようないつもの優雅さで。
『待ちくだびれてもう限界だと思っていた時だった。だから確かめたかったの…了の気持ち。他を知って気付く事ってあるでしょう?』
独り言みたいな彼女の言葉をドアの前に立ち尽くしながら聞いていた。
『戻ってくるって信じてた。知りたかったのはあたしをちゃんと愛してるって気持ちだったのに、気付かされた事は愛されてなんていないって事実だったなんて…』
その語尾は震えていて、消えそうなほどだった。
だけど次に彼女が放った言葉はひんやりとした病室の空気に響きわたった。
『許さないから』
あたしを真っすぐ見据えて、瞳はそう口にした。当たり前に覚悟していた台詞。だけど射抜かれたように胸が痛んだ。
言葉を続ける為に瞳は小さく息を吸い込んだ。次に放たれるであろう言葉が、振り上げられた拳のように感じ、きつく目を閉じて罰を待った。けれども懇願とも言える響きを添えて彼女はこう言ったのだ。
『あたしより彼を愛しているのよね?だから了は樹里ちゃんを選んだんでしょう?了のこと、ちゃんと愛してなかったら許さないんだから…』
すがるような眼差しから目を反らす事が出来なかった。瞳が望むままに、そうだと頷くあたしに彼女は納得したように安堵の色を浮かべた。
『何だかすごく疲れちゃった…』
瞳は倒れ込むみたいに横になった。そしてそのまま、本当に眠ってしまった。その姿は、絵本のお姫様を思わせる。この期に及んでそんな事を思っていた。それは、小人に囲まれた白雪姫か…イバラの城に囲まれて横たわる眠り姫か…
“了のこと、ちゃんと愛してなかったら許さないんだから”
ちゃんと愛しているって瞳に証明しなくてはいけないと、ずっとそんな考え事があたしを捕らえていた。
どうかしていたのだ。
罪が償えるとでも思っていたのだろうか?
あたしは会社を辞めて、新しい職場に勤めだした。了のアパートから近いこともあって、同棲みたいな生活をはじめていた。了とは一緒に居ながらも何となくギクシャクしていて、上手くいってるとは言い難かった。けれども別れるなんてことは許されないような気がした。
瞳が仕掛けた鎖が、あたしに絡み付いて離さない。
苦しかった。
彼を瞳以上に愛している証拠があれば、楽になれるとでも思ったのだろうか?
どうかしていたのだ。結婚したいなんて。けれども驚いた事に、そんなあたしの戯言に了は頷いたのだ。同じ鎖に彼も捕らわれていたのだろうか?
そしてあたしは了の妻になった。瞳が待ちつづけた王子様の最後のキスを、あたしは手に入れたのだ。
けれども….絡んだ鎖はほどけたりなんてしなかった。変わらずあたしを縛りつづけた。
ドウシテ隣ニアタシガイルノ?
その違和感から解き放たれる事なんてなかったのだ。
けれど…この島、バロスであたし達はやっと二人だけの時間を見つける事が出来た。
ここを以前訪れた、どこかの国の小説家はこう言ったそうだ。
“もし地上に天国があったら,それはこの島のことだ”
この島を取り囲む全ての風に抱かれて、あたしは幸福の海に身を任せる。小さな鳥かごみたいな甘い檻のコテージで寄り添って眠る夜。その小説家の言葉をなぞるように、楽園の日々があたしにも訪れていた。ここを訪れる人達すべてに舞い降りる…ひとときの夢なのだろうか?
視線を交わす事も出来なくなっていたあたし達が、ここでの全てを焼き付けようと互いの姿を捕らえて離さない。何日か過ぎる頃には、木陰でキスすら交わすありふれたこの島の幸福な住人になっていた。
だけど、鐘は鳴ったのだ。夢をはぎ取るように残酷に。すっかりあたしが無防備になる頃合いを見計らうかのように。
ビーチに突き出したバーで、ハーフムーンの月をのんびりと眺めている時だった。まるでバロスが黒い海に浮かんだような…そんな夜空だった。
ウェイターが今夜の月にふさわしい、素敵なカクテルだよと、素朴な笑顔でグラスを運んでくる。バロスの海をすくいあげたような、ソーダブルーのカクテル。その華奢なグラスをうっとりと眺めていた。
すると唐突に、了は言い辛そうに声を落として言った。
「俺たちの結婚の事なんだけど…」
小さく体が跳ね上がった。指先に触れていたグラスが揺れて、スローモーションのように傾くのが見えた。グラスが音を立てて砕けた。まるで夢の時間に終止符を打つ、鐘のように響いて…
「大丈夫かっ?」
了が慌てた様子であたしの手を取る。怪我をしたと思ったのだろう。
「大丈夫よ。服、濡らしちゃったから着がえてくるね。すぐ戻るからここに居て?」
片付けに来たウェイターにすまなそうな視線を投げて、あたしは歩き出した。妙に頭が冴えていて、一度に押し寄せる感情を冷めた気持ちで受け止めていた。
馬鹿だあたしは。
あれから二年も経ったのに、何も成長していなかったのだ。
コテージの扉を開けて中に入ると、真っすぐクローゼットに向かう。その奥に立てかけてあったスーツケースを引っ張り出すとあたしはその中から封筒を二通取り出した。
一通は離婚届。もう一通は旅に出掛ける間際に届いた、瞳からの手紙だった。
あたしは離婚届をスーツケースに戻すと、封すら開けていない瞳の手紙だけ握りしめた。そして、さっきと変わらないハーフムーンが浮かぶ海のほうへ向かって歩き出した。
了がモルディブに一年くらい海外赴任することになったと告げられた時、あたしはどこかで安堵していた。二人で過ごす事に少し疲れていたから。喧嘩をしている訳じゃない。だけど口数の少ない了を相手だと、あたしが黙り込めば残る空気は重い沈黙だった。
出発の日、休暇願いを出していたにもかかわらず、急な仕事で休みが取れなかったあたしは申し訳なさそうに言った。
『見送り、行けなくてごめんなさい』
『いいんだよ、今日は成田で午後から打ち合わせで一泊して、明日の昼フライトだからバタバタしてるしさ』
『…うん』
『モルディブは素晴らしく海が綺麗らしい。休み取れるようなら、今度リゾートの島でも行ってみよう』
少し息苦しくて言葉に詰まって、あたしは黙って頷いて彼に答えた。
抱きついてしまいたい衝動。あたしにまだこんな気持ち残っていたんだ。
けれども、リビングの方から響く了の携帯の着信音で、二人の空気は乱されたのだ。
掛け直すから出なくてもいいんだと言う了に、、あたしももう出なきゃ遅刻だからとドアノブ手を掛けた。そして、まるでいつもの朝みたいにあたし達は別れたのだ。
その日の仕事はスムーズにはかどり、上司が、今日は無理を言って出てもらったから、明日は休みをとってもいいよと言ってくれた。そのまま成田エクスプレスに乗って、了が泊まっているホテルに向かった。
驚かせようと連絡はいれてなかった。朝のそっけなさを少し後悔していたのだ。
ホテルのロビーに入ると、ルームナンバーを確認するため、フロントに向かう。ロビーの端に設けられたカフェがなんとなく目に入った。そこで、あたしは見つけてしまったのだ。見覚えのある綺麗なウェーブのかかった髪を持つ女の後ろ姿を。
心臓が凍りついた。瞳だった。
そしてその前で彼女に優しく微笑みかけているのは…了だったのだ。
あたしは少し場所を移動して二人の様子を伺った。二人が言葉少なげな様子で座っているのが観葉植物の葉の隙間から見て取れた。初めて彼らを目にした、バスケットゴールの前のあの時と変わらない空気が二人を包んでいる。黙っていても通じ合っているような…
瞳は幸せそうに笑っていた。ごく自然な様子で。
船を着ける桟橋の淡いライトの下に座って、あたしは瞳の手紙を見つめている。旅に出る時にポストに入っているのを見つけて、そのままこんなところまで持ち込んでしまったのだ。
封を開くのが怖かった。
バロスで了に会ってから…いや、あのスコールの雲の隙間から差し込む光を見てから、この島で過ごす日々に現実を忘れていた。この島を訪れる、幸福な恋人達と自分も変わらないような錯覚に酔いしれてしまっていた。
スーツケースの奥にはひっそりと、変わらない現実が横たわっていたというのに。
了と過ごした歳月の中で、この島でのひと時が、一番幸福に包まれていた気がする。二人だけの時間が流れていた。それが嘘にまみれていたとしても、構わなかったのだ。
だけど、さっき了はこう言った。
“俺たちの結婚の事だけど…”
幕は引けたのだ。
綺麗な淡いブルーの瞳からの手紙。内容は判りきっている気がしたけれど、今読まなくては…バーに戻る前に…。
封を開けようと手を添えると、指先が震えているのに気付く。あたしは苦笑いした。…何を今更恐れているというのだろう。当たり前の場所に彼を返すだけ。一緒に暮らしていたあの歳月に、あたしは彼を笑顔にする事すら出来なかった気がする。
彼女も言っていたではないか。
“他を知って気付く事ってあるでしょう?”
やっと、彼は気付いたのだ。あたしを知って….自分が居るべき場所を。
続く
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