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彼との境界線2/2
じりじりと焼け付くような南の島の日差は、肌をこんがりと焦がしもするし、居心地の良い木陰も作り出す。少し大き目のヤシの葉の欠けたクシみたいな木陰。それは黒いシーツを広げたセミダブルのベッドのように白い砂浜に影を落とした。
コテージから海までのわずかな距離にあるその場所はあたし達のお気に入りになった。ぼんやりと風に当たりながら、あたし達はこの木陰のベッドで寝転びながら話を始めた。
「マナはさ、兄妹いるの?」
まるでほんの数日前に出会ったみたいな会話。今更のようにだけどあたし達には新鮮な身の上話だ。
「あたし一人っ子なんだ…ハルは?」
「笑うなよ、姉貴が3人」
ごめん…何でだか、堪えようとすればそうする程に笑いが込み上げる。ハルは拗ねたみたいな視線であたしを睨んだ。
「ハルの物腰の柔らかい所ってお姉さんに囲まれていたからかな?」
「女3姉妹ってそんな優雅なもんじゃないよ…ま、年も離れているからペットみたいにされてたけどさ」
「…いいね。賑やかそう」
その後あたしは告白をした。誰にも言ったことのない秘め事。
「あたしね、父とは血が繋がっていないんだ。再婚した母の連れ子だったから」
ハルはいつもの優しい眼差しで、黙ってあたしの話を聞いている。
「父は娘が出来たってそれは喜んでくれた。子供らしい清楚なワンピース、ぬいぐるみにピアノにバレエ…彼はそんな女の子らしい事が大好きで、何でも与えてくれたの。だから父の理想の娘になろうと努力したわ。でもそれは本当のあたしじゃなかった」
どうしてこんな話をハルにしているのだろう? 誰にも話した事なんてなかった。告白をするのならもっと人生相談がふさわしい友人が他にいるはずなのに。だけど、もっと深いひと言があたしの喉をすべり落ちた。
「だからあたしって素直じゃないの、可愛気ないのよ」
ハルはあたしの髪に手を伸ばして優しく撫でてくれた。
「なんだ、お互いあまのじゃく同士だったんだね?」
あたしは意味が掴めなくて、不思議な気持ちでハルを見詰めた。
「俺はさ、妾っ子なんだ。だけど本宅にも何でか俺の部屋があってさ、何でだか腹違いの姉貴たちも可愛がってもくれるしさ、気分で好きな方に泊まってた」
まさか、ハルのこんな告白を耳にするとは思ってもみなかったので、返す言葉に詰まってしまった。
「居心地のいい場所を増やす為に愛想ふりまいてさ、心の中じゃ計算してたりするんだ」
ハルはあたしの髪をすくい上げて、パラパラと手の平からこぼして弄んでいる。
「ちゃんとした居場所がひとつあれば充分なのにさ、なくなったらと思うと不安になる」
独り言みたいにそう呟くと、ハルはヤシの葉の透き間からこぼれてくる日差しを眩しそうに仰いだ。
「だから本気を知らない。真っ直ぐな気持ちに臆病だからさ」
話はそこで途切れた。お互いに。小さな波の音だけが、あたし達を包んでいる。ハルはあたしの手を引くと、ヤシの葉の木陰から数歩しか距離のない、小さな二人の為のコテージに歩き出した。言葉で伝えきれない何かを埋めるみたいに、少し冷んやりとしたシーツの上に腕を絡め合いながら倒れこむ。
癖みたいに、ハルの瞳の奥を探っていた。そこにあたしが映っている。何故だか幸せそうにはにかんでいるあたしが。
甘くて熱い
極上の温もり
「ねぇ、ハル溶けちゃうよ……お日様色のはちみつみたいに……」
心の中で呟いたつもりだったのに、そんな甘ったれた台詞をハルの耳に溜め息と一緒に流し込んでいた。ハルはちょっと驚いたみたいにあたしの首筋から唇を離して覗き込んできた。
「ドンってきた……そんな殺し文句……」
照れたみたいにおどけた仕草でハルは胸を押さえた。そして噛み付くようなキスを落としてくる。
さっきと違う、ハルっぽくない性急さ。その余裕のなさが何だか嬉しかった。ハルがあたしに溺れているみたいで。
だけどあたしはというと、溺れるを通り越してとっくに沈没すらしてしまった気分だ。だから、あがらう事を諦めて流れに身を任せるだけ。なんて心地がいいのだろう。この島のハルという海に、あたしは今抱かれている。
だけど、彼の火傷しそうな眼差しに触れた気がしたのは錯覚だったのだろうか?
昨日、あれから夜はナイトフィッシングなんかに行って、それなりに楽しんだつもりだったのに、今朝起きるとハルは気まぐれに空きがあるみたいだから、午前からのボートダイビングに行ってくると突然出掛けてしまった。
いいのだ。ダイビングに行った事は。ただ、あまりにもそっけなかった。あたしから視線をそらしているのが解る程。
勘に触る事でもあったのだろうか? 思い当たる事などなかった。
ダイバー達を乗せて小さくなっていくドーニーを桟橋から見送りながら、昨日の昼下がりの抱擁はこの島が創り出した幻影だったのだと思った。
光が届く限り何処までも透明な海。島をデコレーションするヤシの葉の緑と鮮やかな色彩の花々。何もかもがロマンティックなこの島に抱かれていれば、ムードも盛り上がるというものだ。そんな風に自分に言い聞かせた。それでもいいと。フェイクでも、ハルの温度に触れられたのだから。
きっと彼の彼女の容量をあの一瞬は越えてしまったのだ。それがほんのひと時だったとしても、あたしの存在をうざったく感じ始めたのかもしれない。
前よりハルが遠く感じた。射抜かれたみたいに胸が痛んだ。こんな事で…自分に呆れた。何度恋愛を重ねてもあたしは進歩がない。強がって見せてはいても、迷子の子供みたいに道を見失って途方にくれるのだ。
ひとりきり。
こんな時間もいいではないかと、自分を慰めてみる。あたしがどんな気持ちで見つめようとも、この海と空はどうしてこんなにも変わらず美しいのだろうか。砂浜が足の裏を焦がすなんて事はない。アイボリーがかった雪のようなホワイトサンドは太陽に温められた肌を癒すようにひんやりと肌に触れる。その感触をもっと感じたくて猫みたいに砂の上に横たわってみた。
昨日、ハルが触れていた髪を、手櫛でかきあげて無造作に散らす。髪の隙間から水平線の向こうに隣の島が覗いている。まるでどこかで見かけたポストカード。だけど南の空気にラッピングされた現実の風景は、創り物かと疑心するほどの輝きを添えて、どこまでも広がっている。
瞼を閉じると、残像みたいにブルーの光が暗やみに浮かんだ。ほんの一瞬のつもりだった。だけどいつの間にか眠ってしまったみたいだ。
どのくらい眠ったのだろう?
人の気配で目が覚めた。少し長めのハルの髪があたしを覗きこんでおでこをくすぐっていた。目が合うと驚いたようにハルはあたしから離れた。
「狸寝入りかなって思ってさ」
落ち着かない口調でハルは言った。
「ちょっとウトウトしてたみたい」
そう言葉を返してみたけれど、ハルの視線はもうあたしを見てはいなかった。
翌日の午後から無人島へのシュノーケルツアーへ出掛けた。こんなに小さな無人島が沈まずに海の真ん中にポツンと存在しているのが不思議なくらいだ。
マクヌドゥよりも更に細かい小麦粉のようなビーチ。海の中も、より濃い魚影が島を取り囲んでいる。あたしは足が届く所でのんびりと魚を眺めた。ハルはちょっと一周してくると、ドロップオフの方へ泳いで行ってしまった。
彼の様子が変わってから、手も重ねていない。この旅が終わったら、ハルはもう離れていってしまうのかもしれない。そんな事が頭をよぎった。
あたしを包むあおいゼリーのような水面。色とりどりの魚達がブルーのパレオに浮かぶ模様みたいに取り囲む。
あぁ、この海だと思う瞬間。神さえ感じるほどに全てが、こんなにも鮮やかなのだ。
ぐいっと手首を捕まれた。あまりの強さにバランスガ崩れた。溺れまいと水を掻き分けたが、繋がれたボートみたいにグイグイと水面を引きずられていく。
ハルだった。
ドロップオフまで来るとハルはあたしを解放した。足元は深海を思わせる暗やみへの入り口のようだ。ぽっかりと崖っぷちに浮いている感覚に体がすくむ。
あたし達は向かいあって海に浮かんだ。ハルの視線はあたしを通り越してその後ろを見つめていた。見渡す限りふたりきり。だけどもうあたしは彼の眼差しを捕らえることは出来ないのだろうか?こんなにそばに彼がいるという喜びがいっそう哀しさを引きたてる。
ハルと視線が絡んだ。彼は視線である方向を示した。それはあたしの後ろ。だから、ゆっくりと振り向いてみた。
降り注ぐ日差しが海の中をスポットライトのように光の線で照らし出す。その光は暗く落ちていく海の底にかすれるみたいに闇に向かう。まるで出来すぎた映画のセット。
そして、主役はすでに登場していたのだ。
ここは、海だっけ?空だっけ?
思考回路を混乱させるほど、あたしは驚いてしまったのだ。
…マンタ。大きいマンタが2匹。あたしを包めるくらいのその翼。そう、それは海の中を翼をつかって浮遊しているようだ。
手を差しのべると寄ってきて、触れる寸前で風にあおられたカーテンみたいにその身をひるがえす。ハルはそんなふうに遊ぶあたしをいつもの笑顔で見つめてくれている。彼の瞳に映されて、あたしはこのブルーに染まる舞台の上で子供みたいにマンタとはしゃいだ。
舞台の袖裏に隠れては登場する、カーテンコールを繰り返し演出してみせて、彼らはやがて消えていった。サイレントの映画のようだった。だけど溢れるブルーの色彩は映写機では決して見せることの出来ない、光を織り込んだサンシャインブルー。
島に戻るドーニの上で、興奮が収まらないあたしはさっきのマンタの話をハルに繰り返す。モルディブのダイビングスポットを制覇した彼にしてみれば、珍しい出来事でもないだろう。
だけど、ビーチからたいして距離もない場所で、しかもシュノーケルでマンタが見れるなんてあたしには衝撃だった。
「俺も初めてマンタを見た時は興奮した」
「どこで見たの?」
「グレートバリアリーフ」
ハルは苦笑いしている。
「シュノーケルで見れるんだもんな、モルディブすげえよ…」
マクヌドゥの桟橋にドーニは着いた。部屋に戻る途中、夕日に染まる海の前で結婚式が始まっていた。小さな島での可愛らしい小さな儀式。新郎新婦と牧師と数人のホテルスタッフ。それに、たまたま通りかかったゲスト達。
式はモルディブなまりの英語で進行していたが、花嫁と花婿は聞き慣れない言葉で愛を誓い合っている。どこの国からこの島を訪れたのだろうか?誓いのキスを交わす二人にゲスト達から祝いの言葉が投げられる。
英語
ドイツ語
イタリア語
だからあたしも日本語で”おめでとう”って声をかけた。意味は気持ちで伝わったのだろう。花嫁が嬉しそうに手を振って返してくれた。
結婚式を覗ける木陰であたし達は腰をおろした。それまで黙っていたハルが突然言葉を投げてくる。
「マナって結婚したことある?」
「?…ないけど」
「俺も」
ハルは時々とっぴょうしない事を言う。
「30近くにもなるとさ、初めての事ってなくなってくるじゃん?」
「そうね。あたしなんてハルより年上だから尚更よね」
「…拗ねるなよ。嫌味でいってるんじゃないんだからさ」
何だか年上なのを責められているような気分で、あたしは不機嫌そうな顔をしていると思う。
「初めてのマンタ…ドキドキした?」
「うん。すごく」
「…俺もさ、この島に来てドキドキした」
「ハルは何に?」
ハルちょっと言葉を詰まらせて、まっすぐあたしを見据えてる。その視線の熱っぽさに触れて、弾かれみたいにあたしは顔をあげた。
「責任取ってくれる?俺をこんな気持ちにさせてさ…」
絡んだ視線をハルはそらした。
「おととい…抱き合ってから、マナの目の前にいるだけで何だか胸が息苦しいんだよね」
「…嫌われたのかと思ってた」
「言わなかったっけ?俺、あまのじゃくだって」
ハルの瞳は迷子の子供みたいに不安そうな色を浮かばせた。だからあたしは手を差し伸ばして、ハルの髪を優しくすくいあげてその頭を抱き締めてみる。
「こんな気持ちに気付いてから、馬鹿みたいな事ばかり気になってさ」
「どんな事?」
「…レストランでマナが一緒にいた奴とか」
あたしは意外なそのセリフに不謹慎ながらも吹き出しそうになってしまった。だけど悟られないよう堪えながら小さく答えた。
「シンガポールから久しぶりに戻った従兄なの」
あたしの腕の隙間から覗くハルの耳がほんのりと赤く染まるのが見て取れた。あまり意識させられる事なんてなかったけど、無防備な彼が年下らしくて愛しい。
「かっこ悪い…俺」
慰めるみたいにハルの髪を撫でる
「モルディブに行くのためらっていたじゃん?マナ…悪趣味だって言っただろ?。その意味がやっとわかった」
「後悔してるの?」
「いや…ただ俺、何だか悔しいだけ。」
「悔しい?」
「この島での何もかもがマナにとって初めてじゃない事が」
顔をあげてハルは、燃えるような赤い夕日を指さした。
「バタラの夕日も綺麗だった?」
「…うん」
困った顔で正直に頷いた。
「馬鹿みたいだよ、こんな事気になるなんてさ…だからあんまりマナのそばに居られなかった。自分が上手くコントロール出来なくてさ…こんなの俺じゃない」
あたしはそんなセリフをこぼすハルを信じられない気持ちで見つめた。
「マンタを見つけた時嬉しくてさ、マナの初めてを見つけた気分で」
ハルは苦笑いしている。
「一人でマナの過去と張り合ったりして、滑稽だな…」
いつもマイペースでポーカーフェイスのハル。だけど目の前の彼はまるで無防備で、心の変化を持て余した思春期の少年のようだった。
「マナが俺の前でどんどん素直に自分を出してくれているのがさ、何だか嬉しくてさ…そんなマナと抱き合ったら、俺、おかしくなっちゃった」
ハルは息苦しそうに言葉を続ける。
「本気になる気持ちって羨ましいって思ってたけどあんまりいい気分じゃないな。押し潰されそうで苦しいだけ」
そんな彼にあたしは大人ぶって、その瞳を覗きこんだ。
「馬鹿ね…醍醐味はこれからよ」
大人のキスをハルに贈る。気持ちが通じてると、同じキスでもこんなにも胸が弾かれる。
「…まいったな。マナ何だか…」
キスの合間の息つぎにハルはうわ事みたいにつぶやく。
「色っぽ過ぎて俺溺れちゃう…」
「馬鹿っ」
甘えた視線でハルを睨んだ。溺れてるのはあたし
「マナをもっと俺との初めてで染め直したい」
そう言ってハルは信じられない言葉を続けた。
「…今度来るとき、アレしない?」
アレって?意味が理解できないあたしに、答えを示すみたいにハルは、結婚式が終わって、夢の跡みたいに散らばった花びらのバージンロードを視線でさした。
こんな大事な事を思いつきで口にした彼に、咎めるような口調であたしは答える。
「ここがあんまりロマンティックだから…錯覚してるんだよ」
「俺、やっと見つけたんだよね…こんな気持ち教えてくれる女」
駄目だってば…
もうこれ以上ハルで一杯になっちゃったら、あたしがおかしくなっちゃう。さっきまで大人の余裕だなんてハルをリードしてたつもりが、あっという間に彼に飲み込まれている。
「楽器弾きの嫁さんなんて嫌かな?いい加減に言ってるわけじゃないから…返事はさ、帰ってからでいいよ」
「……あたしの事なんて知らないくせに……」
強がってるだけで、大人ぶってるだけで、ホントは淋しがりやで、結構嫉妬深かったりするなんて知らないでしょ?、
「直感……勘だけはいいんだよね。俺だってこんな事、初めて意識した。ただ、マナを独り占めしたいだけ。
何言ってるんだって、呆れられちゃったかな?マナ……怒った?怖い顔してる……」
あたしは拗ねた視線でハルを睨んだ。
「あたしも、相当なあまのじゃくだって言わなかったっけ?」
“楽器弾きの嫁さんなんて嫌かな?”
ハルのさっきのセリフが頭の中でこだまする。今更になって顔が熱くなっていくのを感じながら、ハルの肩におでこを寄せてみる。
「綺麗だね……」
薄暗くなって輝きだした幾つかの星をハルと見上げる。モルディブで何度となく見上げた風景。だけど、その輝きがより一層光を放っているみたいに見えるのは気のせいだろうか?
何もかもが、このロマンティックな島が仕掛けた魔法かもしれない。
だけど今は……この楽園が見せてくれる夢のひと時に、溺れるのもいいじゃないかと思う。
極上のロマンス
この島で過ごす時間は麻薬のようにあたしを虜にする。モルディブを再び訪れるだろうという予感。
その時隣に寄り添うのは、やっぱりハルだといいなと、彼の温もりに包まれながら、そんな事をぼんやりと思って瞼を閉じてみた。
【END】
【目次】
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